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'''大東島紙幣'''(だいとうじましへい)とは、[[沖縄県]]の[[大東諸島]]において使用されていた紙幣類似証券の商品引換券のことである。正式には「'''南北大東島通用引換券'''」とよばれ、本来は[[砂糖]][[手形]]であったものが島の流通貨幣となったものである。別名を'''玉置紙幣'''ともいう。 |
'''大東島紙幣'''(だいとうじましへい)とは、[[沖縄県]]の[[大東諸島]]において使用されていた紙幣類似証券の商品引換券のことである。正式には「'''南北大東島通用引換券'''」とよばれ、本来は[[砂糖]][[手形]]であったものが島の流通貨幣となったものである。別名を'''玉置紙幣'''ともいう{{sfn|進尚子|2017|pp=221}}。 |
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== 発行の背景 == |
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大東諸島は以前は[[無人島]]であったが、[[1885年]]に[[日本]]領に編入されていた。[[1900年]]に[[玉置半右衛門]]を中心とした[[八丈島]]からの開拓団が大東諸島の開拓を開始し、[[サトウキビ]]の栽培や製糖業を営む企業である玉置商会が島全体を所有していた。また特例として町村制は施行されず島の自治が全面的に委ねられていた。即ち、日本の行政機関による地方行政が及ばない、公的届出すら事実上不可能な「社有島」であった。[[警察官]]も[[戦前]]の警察制度にあった[[請願巡査]]であり、玉置商会が人件費を負担していた。 |
大東諸島は以前は[[無人島]]であったが、[[1885年]]に[[日本]]領に編入されていた。[[1900年]]に[[玉置半右衛門]]を中心とした[[八丈島]]からの開拓団が大東諸島の開拓を開始し、[[サトウキビ]]の栽培や製糖業を営む企業である玉置商会が島全体を所有していた。また特例として町村制は施行されず島の自治が全面的に委ねられていた。即ち、日本の行政機関による地方行政が及ばない{{sfn|黒柳保則 |2017|pp=74}}、公的届出すら事実上不可能な「社有島」であった。[[警察官]]も[[戦前]]の警察制度にあった[[請願巡査]]であり、玉置商会が人件費を負担していた{{sfn|平岡昭利|1977|pp=245}}。 |
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島民も玉置商会の管理的役職の者を除き、全て製糖会社にサトウキビを納める小作農などの使用人であり、島への渡航手段から商店・学校・郵便局などに到るまで、すべて社有であった。このように島のあらゆる社会資本や住民は全て玉置商会の管理下に置かれていた。島民すべてが玉置商会の使用人(従業員)であったほか、島の生活物資を販売する商店も玉置商会が経営しており、給料として支払われる金銭は全て会社発行の商品引換券であったため、事実上大東諸島における[[通貨]]として機能していた。 |
島民も玉置商会の管理的役職の者を除き、全て製糖会社にサトウキビを納める小作農などの使用人であり、島への渡航手段から商店・学校・郵便局などに到るまで、すべて社有であった。このように島のあらゆる社会資本や住民は全て玉置商会の管理下に置かれていた{{sfn|辻原万規彦|今村仁美|2017|pp=1867}}。島民すべてが玉置商会の使用人(従業員)であったほか、島の生活物資を販売する商店も玉置商会が経営しており、給料として支払われる金銭は全て会社発行の商品引換券であったため、事実上大東諸島における[[通貨]]として機能していた{{sfn|社會局 |1926|pp=471}}。 |
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== 紙幣の概略 == |
== 紙幣の概略 == |
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島を支配していた玉置商店が発行していた引換券は1銭から10円までの6種類であった。そのうえ島内では[[日本政府]]発行の[[硬貨]]や[[日本銀行券]]は一切流通していなかったため、島内の子供も日本の正式な通貨だと思い込んでいたという。玉置商会からすれば島の住民に支払うべき現金を用意する必要が無く、その資金を運用することで大きな利益を上げていたという。 |
島を支配していた玉置商店が発行していた引換券は1銭から10円までの6種類であった。そのうえ島内では[[日本政府]]発行の[[硬貨]]や[[日本銀行券]]は一切流通していなかったため、島内の子供も日本の正式な通貨だと思い込んでいたという。玉置商会からすれば島の住民に支払うべき現金を用意する必要が無く、その資金を運用することで大きな利益を上げていたという{{sfn|進尚子|2017|pp=222}}。 |
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また玉置商店の紙幣は島でしか使えないため、島から出る時は玉置商会の事務所で日本円と交換できるとされていたが、これによって出稼ぎ労働者が勝手に島から逃げ出すのを防ぐ効果もあった。同様の制度は[[ハンセン病療養所の特殊通貨]]や[[西表島]]での炭坑切符([[西表炭坑]]を参照)、さらに[[東南アジア]]にあった[[プランテーション]]農場の労働者にも適用されており、日本国内における植民地的経営の実例や隔離を目的とした疑似通貨であったといえる。 |
また玉置商店の紙幣は島でしか使えないため、島から出る時は玉置商会の事務所で日本円と交換できるとされていたが{{sfn|社會局勞働部|1927|pp=75}}、これによって出稼ぎ労働者が勝手に島から逃げ出すのを防ぐ効果もあった。同様の制度は[[ハンセン病療養所の特殊通貨]]や[[西表島]]での炭坑切符([[西表炭坑]]を参照)、さらに[[東南アジア]]にあった[[プランテーション]]農場の労働者にも適用されており、日本国内における植民地的経営の実例や隔離を目的とした疑似通貨であったといえる{{sfn|平岡昭利|2005|pp=90}}。 |
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その後、玉置商会の島における権益は[[1916年]]に東洋製糖へ売却され、[[1927年]]に東洋製糖が[[大日本製糖]]に吸収合併されたが、玉置商店が行っていた引換券の発行は続けられていたとされている。現在は北大東村民俗資料館で2枚、南大東村のふるさと文化センターで1枚が保存されている。 |
その後、玉置商会の島における権益は[[1916年]]に東洋製糖へ売却され、[[1927年]]に東洋製糖が[[大日本製糖]]に吸収合併されたが{{sfn|進尚子|2017|pp=224}}、玉置商店が行っていた引換券の発行は続けられていたとされている。現在は北大東村民俗資料館で2枚、南大東村のふるさと文化センターで1枚が保存されている。 |
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なお、これらの引換券が経営企業が変わる際にどのようにして交換されたかや、いつまで流通していたかについては記録に乏しく不明な点が多い。 |
なお、これらの引換券が経営企業が変わる際にどのようにして交換されたかや、いつまで流通していたかについては記録に乏しく不明な点が多い。 |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=石原幸一郎編纂|year=2005|title=「日本紙幣収集事典」|publisher=原点社|isbn=4-9902020-2-3}} 234-235頁 |
* {{Cite book|和書|author=石原幸一郎編纂|year=2005|title=「日本紙幣収集事典」|publisher=原点社|isbn=4-9902020-2-3}} 234-235頁 |
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* {{Cite book|和書|author1=社會局 |authorlink1=社会局 |year=1926 |title=大正十三年工場監督年報 |page=471 |publisher=社會局 |url=https://books.google.co.jp/books?id=GalzIgsZxI8C&pg=PA471#v=onepage&q&f=false |oclc=915402615| ref = harv }} |
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* {{Cite book|和書|author1=社會局勞働部 |authorlink1=社会局 (琉球政府) |year=1927 |title=大正十四年工場監督年報 |page=75 |publisher=社會局勞働部 |url=https://books.google.co.jp/books?id=7bsQBYneHxUC&pg=PP75#v=onepage&q&f=false |oclc=33767491| ref = harv }} |
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* {{Cite journal |和書|author1=平岡昭利 |authorlink1=平岡昭利 |title=大東諸島の開拓とプランテーション経営 |journal=[[人文地理]] |issue=3 |vol=29 |publisher=[[人文地理学会]] |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/29/3/29_3_227/_pdf#page=19 |year=1977 |pages=227-252 |ISSN=1883-4086 |doi=10.4200/jjhg1948.29.227 |naid=130000996155 |ref = harv }} |
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* {{Cite book|和書|author1=平岡昭利 |year=2005 |title=離島研究 II |page=90 |publisher=海青社 |url=https://books.google.co.jp/books?id=gEbhDQAAQBAJ&pg=PA90#v=onepage&q&f=false |isbn=9784860992125| ref = harv }} |
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* {{Cite journal |和書|author1=進尚子 |title=<研究ノート>複数のオキナワ・アイデンティティ :沖縄県南大東島の事例 |journal=沖縄文化研究 |vol=44 |publisher=[[法政大学沖縄文化研究所]] |url=https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=13807&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1#page=13 |year=2017 |pages=211-241 |ISSN=1883-4086 |doi=10.15002/00013800 |naid=120006027961 |ref = harv }} |
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* {{Cite journal |和書|author1=辻原万規彦 |author2=今村仁美 |authorlink2=今村仁美 |title=戦前期の沖縄における製糖工場とその建設が地域に与えた影響 |journal=日本建築学会計画系論文集 |issue=737 |vol=82 |publisher=[[日本建築学会]] |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/82/737/82_1859/_pdf#page=9 |year=2017 |pages=1859-1869 |ISSN=18818161 |doi=10.3130/aija.82.1859 |naid=130005874077 |ref = harv }} |
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* {{Cite journal |和書|author1=黒柳保則 |title=米軍政下の大東諸島における「自治」制度の施行と展開 : 天然資源と政治行政 |journal=沖縄法学 |issue=45 |publisher=[[沖縄国際大学]]法学会 |url=https://okiu1972.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=34&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1&page_id=13&block_id=21#page=8 |year=2017 |pages=67-90 |ISSN=02870649 |naid=120006728537 |ref = harv }} |
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== 外部リンク == |
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*[https://archive.fo/LqEF NHK沖縄放送局] 日本銀行那覇支店で展示された大東島紙幣のうち東洋精糖発行の50銭券が紹介されている。([[archive.is]]のキャッシュ) |
*[https://archive.fo/LqEF NHK沖縄放送局] 日本銀行那覇支店で展示された大東島紙幣のうち東洋精糖発行の50銭券が紹介されている。([[archive.is]]のキャッシュ) |
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2022年7月3日 (日) 14:08時点における版
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大東島紙幣(だいとうじましへい)とは、沖縄県の大東諸島において使用されていた紙幣類似証券の商品引換券のことである。正式には「南北大東島通用引換券」とよばれ、本来は砂糖手形であったものが島の流通貨幣となったものである。別名を玉置紙幣ともいう[1]。
発行の背景
大東諸島は以前は無人島であったが、1885年に日本領に編入されていた。1900年に玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団が大東諸島の開拓を開始し、サトウキビの栽培や製糖業を営む企業である玉置商会が島全体を所有していた。また特例として町村制は施行されず島の自治が全面的に委ねられていた。即ち、日本の行政機関による地方行政が及ばない[2]、公的届出すら事実上不可能な「社有島」であった。警察官も戦前の警察制度にあった請願巡査であり、玉置商会が人件費を負担していた[3]。
島民も玉置商会の管理的役職の者を除き、全て製糖会社にサトウキビを納める小作農などの使用人であり、島への渡航手段から商店・学校・郵便局などに到るまで、すべて社有であった。このように島のあらゆる社会資本や住民は全て玉置商会の管理下に置かれていた[4]。島民すべてが玉置商会の使用人(従業員)であったほか、島の生活物資を販売する商店も玉置商会が経営しており、給料として支払われる金銭は全て会社発行の商品引換券であったため、事実上大東諸島における通貨として機能していた[5]。
紙幣の概略
島を支配していた玉置商店が発行していた引換券は1銭から10円までの6種類であった。そのうえ島内では日本政府発行の硬貨や日本銀行券は一切流通していなかったため、島内の子供も日本の正式な通貨だと思い込んでいたという。玉置商会からすれば島の住民に支払うべき現金を用意する必要が無く、その資金を運用することで大きな利益を上げていたという[6]。
また玉置商店の紙幣は島でしか使えないため、島から出る時は玉置商会の事務所で日本円と交換できるとされていたが[7]、これによって出稼ぎ労働者が勝手に島から逃げ出すのを防ぐ効果もあった。同様の制度はハンセン病療養所の特殊通貨や西表島での炭坑切符(西表炭坑を参照)、さらに東南アジアにあったプランテーション農場の労働者にも適用されており、日本国内における植民地的経営の実例や隔離を目的とした疑似通貨であったといえる[8]。
その後、玉置商会の島における権益は1916年に東洋製糖へ売却され、1927年に東洋製糖が大日本製糖に吸収合併されたが[9]、玉置商店が行っていた引換券の発行は続けられていたとされている。現在は北大東村民俗資料館で2枚、南大東村のふるさと文化センターで1枚が保存されている。 なお、これらの引換券が経営企業が変わる際にどのようにして交換されたかや、いつまで流通していたかについては記録に乏しく不明な点が多い。
参考文献
- 石原幸一郎編纂『「日本紙幣収集事典」』原点社、2005年。ISBN 4-9902020-2-3。 234-235頁
- 社會局『大正十三年工場監督年報』社會局、1926年、471頁。OCLC 915402615 。
- 社會局勞働部『大正十四年工場監督年報』社會局勞働部、1927年、75頁。OCLC 33767491 。
- 平岡昭利「大東諸島の開拓とプランテーション経営」『人文地理』第3号、人文地理学会、1977年、227-252頁、doi:10.4200/jjhg1948.29.227、ISSN 1883-4086、NAID 130000996155。
- 平岡昭利『離島研究 II』海青社、2005年、90頁。ISBN 9784860992125 。
- 進尚子「<研究ノート>複数のオキナワ・アイデンティティ :沖縄県南大東島の事例」『沖縄文化研究』、法政大学沖縄文化研究所、2017年、211-241頁、doi:10.15002/00013800、ISSN 1883-4086、NAID 120006027961。
- 辻原万規彦、今村仁美「戦前期の沖縄における製糖工場とその建設が地域に与えた影響」『日本建築学会計画系論文集』第737号、日本建築学会、2017年、1859-1869頁、doi:10.3130/aija.82.1859、ISSN 18818161、NAID 130005874077。
- 黒柳保則「米軍政下の大東諸島における「自治」制度の施行と展開 : 天然資源と政治行政」『沖縄法学』第45号、沖縄国際大学法学会、2017年、67-90頁、ISSN 02870649、NAID 120006728537。
関連項目
外部リンク
- NHK沖縄放送局 日本銀行那覇支店で展示された大東島紙幣のうち東洋精糖発行の50銭券が紹介されている。(archive.isのキャッシュ)