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'''亀井院'''(かめいいん)は、[[千葉県]][[市川市]][[真間|真間四丁目]]にある[[日蓮宗]]の[[寺院]]である。向かいには[[手児奈霊神堂]]がある。旧本山は真間[[弘法寺 (市川市)|弘法寺]]。池上・芳師法縁。 |
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古くは清水が湧いていたことにちなんでか'''瓶井院'''、'''瓶井坊'''とも呼ばれ、'''[[弘法寺 (市川市)|真間山弘法寺]]'''の子院のひとつであった。後に弘法寺の[[大檀那]]、 |
古くは清水が湧いていたことにちなんでか'''瓶井院'''、'''瓶井坊'''とも呼ばれ、'''[[弘法寺 (市川市)|真間山弘法寺]]'''の子院のひとつであった。後に弘法寺の[[大檀那]]、鈴木長常を葬った際、'''鈴木院'''と改称した。[[江戸時代]]には、江戸幕府[[作事奉行]]鈴木長頼が亀井院を修造したという。長頼が[[1705年]]に、[[日光東照宮]]の石を当院の石段に流用した廉で[[幕府]]に咎められ切腹した<ref>ただしこの件については、当時の史料において確認できないため、俗説とされている(真島望, 「[https://doi.org/10.20815/kinseibungei.105.0_1 幕府御大工頭鈴木長頼の文事]」『近世文藝』 105巻 2017年 p.1-15, 日本近世文学会, {{doi|10.20815/kinseibungei.105.0_1}})。</ref>後、当時'''亀井'''と呼ばれていた真間の[[手児奈]]にちなみ、'''亀井院'''と改称した。その後、[[1916年]]([[大正]]5年)5月から6月頃まで[[北原白秋]]がこの寺の庫裏に住んでいたこともある。 |
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亀井とは、井戸に[[霊亀]]が出現するという伝説から来ている。 |
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[[万葉集]]の一つとして、次のような和歌がある。 |
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<blockquote>(訳)葛飾の真間の井を見れば、水を汲む手児奈を思い出す。</blockquote> |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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2020年5月26日 (火) 08:36時点における版
亀井院 | |
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本堂 | |
所在地 | 千葉県市川市真間4-4-9 |
位置 | 北緯35度44分19.59秒 東経139度54分34.49秒 / 北緯35.7387750度 東経139.9095806度 |
山号 |
眞間山 (真間山) |
院号 |
龜井院(亀井院) 甁井院(瓶井院)、甁井坊(瓶井坊) 鈴木院 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | 眞間山弘法寺の子院 |
創建年 | 1638年頃 |
開基 | 日立 |
正式名 | 眞間山弘法寺龜井院 |
文化財 | 真間万葉顕彰碑[真間井](市文化財) |
法人番号 | 3040005004147 |
亀井院(かめいいん)は、千葉県市川市真間四丁目にある日蓮宗の寺院である。向かいには手児奈霊神堂がある。旧本山は真間弘法寺。池上・芳師法縁。
由緒
1638年頃、弘法寺の第十一世住職である日立が貫主の隠居寺として建てたという。
古くは清水が湧いていたことにちなんでか瓶井院、瓶井坊とも呼ばれ、真間山弘法寺の子院のひとつであった。後に弘法寺の大檀那、鈴木長常を葬った際、鈴木院と改称した。江戸時代には、江戸幕府作事奉行鈴木長頼が亀井院を修造したという。長頼が1705年に、日光東照宮の石を当院の石段に流用した廉で幕府に咎められ切腹した[1]後、当時亀井と呼ばれていた真間の手児奈にちなみ、亀井院と改称した。その後、1916年(大正5年)5月から6月頃まで北原白秋がこの寺の庫裏に住んでいたこともある。
亀井とは、井戸に霊亀が出現するという伝説から来ている。
境内にある真間の井は、万葉集にも詠まれた真間の手児奈が水を汲んだ井戸と伝えられている。
万葉集について
万葉集の一つとして、次のような和歌がある。
勝鹿の(葛飾の・かつしかの) 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ(みずくましけん) 手児奈し思ほゆ(てこなしおもうゆ)
高橋虫麻呂
(訳)葛飾の真間の井を見れば、水を汲む手児奈を思い出す。
所在地
- 千葉県市川市真間4-4-9
脚注
- ^ ただしこの件については、当時の史料において確認できないため、俗説とされている(真島望, 「幕府御大工頭鈴木長頼の文事」『近世文藝』 105巻 2017年 p.1-15, 日本近世文学会, doi:10.20815/kinseibungei.105.0_1)。