高魯
高魯 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1877年(光緒3年) |
死去: |
1947年(民国36年)6月26日 中華民国 福建省福州市 |
出身地: |
清 福建省福州府長楽県 (現:福州市長楽区) |
職業: | 天文学者・気象学者・政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 高魯 |
簡体字: | 高鲁 |
拼音: | Gāo Lŭ |
ラテン字: | Kao Lu |
和名表記: | こう ろ |
発音転記: | ガオ ルー |
高 魯(こう ろ)は中華民国の天文学者・気象学者・政治家・外交官。字は叔欽、曙青。
事跡
[編集]福州船政学堂を卒業後、鉄道測量と建築の技師となる。1905年(光緒31年)、ベルギーに留学してブリュッセル大学で工学博士号を取得した。卒業後はドイツ・フランスの工場で実習経験を積んでいる。1909年(宣統元年)、中国同盟会パリ支部で会員となった。
武昌起義(辛亥革命)勃発後に高魯は帰国して南京の中華民国臨時政府に参加し、内務部疆理司司長に就任する。北京政府が成立すると、内務部機要科科長に転じた。1913年(民国2年)、中央観象台台長に就任し、雑誌『気象月刊』、『観象叢報』などの雑誌を創刊している。1918年(民国7年)、フランスで開催された時間単位統一のための国際会議に出席し、そのままフランスで留学生監督に任命された。1922年(民国11年)に帰国、中央観象台台長に復任し、さらに国立北京女子高等師範学校と北京大学で教鞭をとっている。1926年(民国15年)にこれらの職を辞した。
1927年(民国16年)4月、高魯は国民政府側の江蘇省政務委員会常務委員に就任し、11月、同省政府の改組に伴い省政府委員となった。翌1928年(民国17年)2月、新設された国立中央研究院天文研究所所長に就任する。高は鼓楼測候所、南京紫金山天文台、中国日食観測委員会などを次々と設立した。翌月、国民政府農鉱部参事兼秘書長となり、4月には大学院秘書・教育行政委員に移っている。10月、駐フランス公使に任命され、任地に赴いた。1930年(民国19年)12月、教育部部長に任命されたが、実際には就任できず、そのまま公使の職務を続けている。
1931年(民国20年)1月に高魯は帰国し、監察院監察委員に任命された。1942年(民国31年)8月、監察院閩浙区監察使に就任している。これらの他、公務員の高等任用試験の監督なども務めた。
1947年(民国36年)6月26日、福州市にて死去。享年71。著書に『積分精義』、『中国天文学史』、『中央観象台の過去と未来』、『相対論原理』などがある。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国
|
---|