趙福金

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趙 福金(ちょう ふくきん、1103年3月以前 - 1128年)は、北宋徽宗の第5皇女(夭逝を除いて第4皇女)。

経歴[編集]

寿安郡君劉氏(後の貴妃、明達皇后)の長女として生まれた。崇寧2年(1103年)3月、延慶公主の位を授けられた。大観2年(1108年)2月、康福帝姫の位を改授された。美人として知られ、また母妃が寵愛されたこともあり、皇女の中で最も父帝に可愛がられた。

重和元年(1118年)11月、茂徳帝姫の位を改授された。同月、宣和殿待制の蔡鞗(蔡京の五男)に降嫁した。奢侈な生活を送って豪壮な邸宅を建て、民衆に負担を与えた。

靖康元年(1126年)、蔡京の失脚後、長男の蔡攸ら兄弟と一族は欽宗の命で誅殺された。蔡鞗は福金のため死刑は免れたが、監禁に処せられた。欽宗は都を包囲した軍に、「六賊」(蔡京・童貫・梁師成・王黼・朱勔・李邦彦)の家財を献じ、領土の割譲と賠償金の支払いなど屈辱的な内容で講和を求めた。その時、金軍の将帥の一人の完顔宗望は、献じられた侍女李氏(元は福金の侍女)から福金の美貌を知らされて、ひそかに欽宗と相談し、福金を要求した。数回の交渉の後、領土と賠償金について金側が譲歩する可能性を期待して、欽宗は承知した。詔令によって開封府は、他の2人の金軍の将帥に47人の「六賊」の家妓を献じた。これに混じって、福金が媚薬を飲まされて、宗望に献じられた。

その後、他の将帥の一人の完顔宗翰が反対したため、講和は沙汰やみとなった。福金は宗望の寵愛を受けたが、金の天会5年(1127年)、宗望は病没した。天会6年(1128年)8月、福金は失意のうちに病没した。

男子[編集]

  • 蔡愉 - 蔡鞗との子。宣和4年(1122年)11月5日、幼くして通直郎の位を授けられた。祖父の蔡京の失脚後、郷里の仙游へ追放された。

伝記資料[編集]

  • 宋史
  • 金史
  • 『靖康稗史箋證』
  • 『皇第五女特封延慶公主制』