賀泥

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賀 泥(が でい、生没年不詳)は、北魏外戚賀護(が ご)とも書かれる。賀蘭部の出身。本貫代郡

経歴[編集]

賀悦の子として生まれた。北新公の爵位を嗣ぎ、後に肥如侯に降封された。409年永興元年)、道武帝拓跋紹に殺害されると、賀泥は拓跋紹に反対して安陽城の北で起兵し、賀蘭部の人々を集めた。明元帝が即位すると、拓跋渾ら8人とともに拾遺左右を命じられた。北新侯安同とともに持節として行并定二州をつとめ、并州刺史の元六頭らを弾劾して処断したため、州郡の綱紀は粛然とした。

後に太武帝に従って赫連昌を攻め、功績により爵位を琅邪公に進めた。北魏の軍事や国事の重要な議論には、必ず参加するようになった。柔然に対する北征に参加し、別道の将となったが、追撃にあたって兵を進めず、討ち取った首級の数を水増ししたため、斬罪に相当するとされたが、罪を金で贖って、庶人となった。長らくを経て、光禄勲に任じられ、外都大官となり、もとの爵位にもどされた。在官のまま死去した。

子の賀丑建が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]

  • 魏書』巻83上 列伝第71上
  • 北史』巻80 列伝第68