貝谷真孜
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貝谷眞孜 かいたに しんし | |
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生年月日 | 1877年10月12日 |
没年月日 | 1937年11月2日(60歳没) |
出身校 |
東京鉄道学校鉄道建設科卒業 (現岩倉高等学校) |
前職 | 三池炭鉱社員 |
所属政党 | 立憲政友会 |
配偶者 | 貝谷多美 |
子女 | 三女・貝谷八百子 |
選挙区 |
(福岡県第7選挙区→) 福岡県第3選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1927年3月 - 1928年1月21日 1932年2月 - 1936年1月21日 |
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日[1] - 1937年(昭和12年)11月2日[2])は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田[3]。
経歴
[編集]郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる[1][3]。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓[1][3][4]。
小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任[1][2]。
1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した[1]。
1927年(昭和2年)3月、野田卯太郎死去に伴う福岡県第7区の第15回衆議院議員総選挙補欠選挙に立候補して当選[2][5]。1932年(昭和7年)2月の第18回総選挙でも福岡県第3区から出馬して当選し、衆議院議員を通算2期務めた[2]。
その他、大牟田市会議員を務め[1]、1930年(昭和5年)から熊本県球磨郡の深田銅山の経営を行い、1934年(昭和9年)新望銅山 (株) を設立して鉱山経営を続けた[6]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 大牟田市史編集委員会編『大牟田市史 下巻』大牟田市、1968年。
- 『人事興信録 第11版 改訂版 上』人事興信所、1938年、カ60頁。
- 税田幸一『地方自治政の沿革とその人物』自治通信社、1931年。
- 小松裕「『近代』の"縮図"球磨郡深田銅山の歴史 : 鉱毒問題から朝鮮人労働まで」『文学部論叢』57(史学篇)、熊本大学、1997年。