谷利

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谷 利(こく り、生没年不明)は、中国後漢末期から三国時代の人物。また『江表伝』・『水経注』に記載がある。

史書の記載[編集]

元々奴隷であったとの記録があるため、解放奴隷であったと思われる(『芸文類聚』巻35に引く『江表伝』)。孫権の側近で使い走りをしており、謹直な性格から親近監に任ぜられていた。また忠義が高く一本気であり、いい加減なことを言わなかったことから、孫権の信頼を得ていたという。

合肥の戦いでは、孫権が駿馬で渡し場の橋を渡ろうとしたところ、橋の南端一丈が撤去されていたため、進退が窮まった。このため孫権の後ろに付き従っていた彼は、馬に鞭を入れて孫権を飛騎させた。このおかげで孫権は危機を脱することができた。孫権は、谷利に都亭侯の位を与えたという。

また、黄武5年(226年)に武昌で「長安」なる巨大戦艦(『水経注』によれば二千人を乗せられたという)の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたが、風が強くなり長江が荒れたため、谷利は舵取りに対し武昌のすぐ近くの樊口(現在の鄂州市)に停泊するよう命じた。しかし孫権は、航行を続けさせ羅州(現在の黄岡市)まで行くことを望んだ。このため谷利は剣を舵取りに突き付けて、強引に樊口へと向かわせた。孫権の判断を谷利が聞き入れなかったために、結局船は樊口に接岸して座礁した。後に孫権がこれを「臆病な阿利」とからかったが、谷利は「船が転覆し孫権を失うことを恐れたので、命令違反のときの死罪を覚悟して命令した」と言った。これ以後孫権は谷利を大切にし、彼を名前で呼ばずに、いつも「谷」と呼ぶようになったといわれる。

三国志演義[編集]

曹操軍の張遼楽進李典らと合肥で戦ったとき、孫権の部将として従軍している。 張遼に襲撃された際は、退路を絶たれた孫権に「一旦ご乗馬を退がらせ、一気に飛ばしますれば、飛び越えられまするぞ。」と進言する。 これを容れた孫権は見事に対岸へ飛び移り、張遼から逃げる事に成功している。

孫権は帰陣後に谷利を厚く賞している。

参考文献[編集]

  • 三国志「呉主伝第二」