藤原家通 (宮内卿)
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 天喜4年(1056年) |
死没 | 永久4年1月25日(1116年2月10日) |
改名 | 家通→長真→家通 |
別名 | 家道 |
官位 | 正四位下、宮内卿 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流 |
父母 | 父:藤原顕綱、母:藤原隆経の娘 |
兄弟 | 兼子、家通、有佐、道経、長子 |
妻 | 正室:藤原行房の娘 |
子 | 顕経、源豪、恵暁 |
藤原 家通(ふじわら の いえみち)は、平安時代後期の貴族。名は家道とも記される。藤原北家道綱流、丹波守・藤原顕綱の子。官位は正四位下・宮内卿。
経歴
[編集]承暦2年(1078年)の内裏歌合の右方に越前守として出席して勝利、翌承暦3年(1079年)に昇殿が許され、程なく侍従となる。左近衛少将・左京権大夫・加賀守などを歴任後、正四位下・宮内卿に至る。また、禎子内親王及びその孫(養女)・篤子内親王家の別当を務めた(禎子内親王の乳母弁乳母は家通の父方の祖母)。一時長真と名乗るが勅命によって旧名に戻されたという。
永久4年(1116年)1月25日卒去。享年61。没後、その宅地は白河法皇によって買い取られ、後に保元の乱の激戦地となる三条東殿が造営される。
官歴
[編集]- 承暦元年(1077年) 12月14日:見越前守[1]
- 応徳元年(1084年) 10月28日:見加賀守[2]
- 寛治4年(1090年) 6月5日:辞加賀守[3]
- 永久4年(1116年) 1月25日:卒去[4]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。