稲葉観通
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稲葉観通像(臼杵市・月桂寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天保10年8月5日(1839年9月12日) |
死没 | 文久2年閏8月4日(1862年9月27日) |
改名 | 富太郎、観通 |
戒名 | 本国院殿一軌宗範大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 豊後臼杵藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉通孚、養父:稲葉幾通 |
兄弟 | 観通、清徳院ら |
妻 | 山内容堂の養女 |
子 | 養子:久通 |
略歴
[編集]稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため、実際の藩政は祖父が取り仕切っていた。天保16年(1845年)、流刑に処された元幕臣の渋川敬直を預かっている。
弘化4年(1847年)に祖父が死去すると藩政を執り始める。義父が有名な山内容堂(豊信)であったことから、軍制改革や海岸の測量、外国船に対する砲台の建設など、藩政の整備に尽力した。
文久2年(1862年)閏8月4日に24歳で死去し、跡を養嗣子の久通が継いだ。幕末の動乱期ということから、その死はしばらく隠匿された。
系譜
[編集]父母
正室
養子