神応寺 (水戸市)
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神応寺 | |
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所在地 | 茨城県水戸市元山町1丁目2−64 |
位置 | 北緯36度22分46.3秒 東経140度27分25.1秒 / 北緯36.379528度 東経140.456972度座標: 北緯36度22分46.3秒 東経140度27分25.1秒 / 北緯36.379528度 東経140.456972度 |
山号 | 藤沢山 |
宗旨 | 時宗 |
宗派 | 時宗遊行派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
開山 | 他阿普光 |
開基 | 佐竹義宣 |
正式名 |
藤沢山神応寺 (藤澤山神應寺) |
別称 | 水戸藤沢道場 |
法人番号 | 5050005000696 |
神応寺(じんのうじ)は、茨城県水戸市にある時宗の寺院。「神應寺」とも書く。
概略と沿革
[編集]時宗遊行派の総本山である清浄光寺は、永正10年(1513年)に合戦に巻き込まれて焼失した。その地を支配していた後北条氏に睨まれていたために、再建することができず、約百年に亘って藤沢上人(遊行上人を引退した清浄光寺住職)と本尊は、各地を流浪することになった。
そこで佐竹氏の一門出身である遊行32代他阿普光は、佐竹義宣を頼って、水戸の地に藤沢道場を建立することとした。天正19年(1591年)、水戸城下の後に藤沢小路と呼ばれる神生平(かのうだいら)に建てられた。こうして短い間だが、遊行派本山となった。当初は寺号がなかったが、清浄光寺再興を受けて寛永10年(1633年)に神応寺と改称し、延宝8年(1680年)に現在の元山町の地に移転した。
境内には広大な墓地があり、中に居合術田宮流中興の祖・和田平助正勝、軍学者・山国兵部共昌、その実弟・田丸稲之衛門直允らの墓がある[1]。
雷除けで信仰を集めた蹴揚観音があり、かつては別雷大神を祭祀していたが、神仏分離令により、隣の敷地で独立した。本地仏は現在も当寺で祀られている。
文化財
[編集]- 「慷慨淋漓(こうがいりんり)の碑拓本附台石(ひたくほんつけたりだいいし)」[2] - 諸生派の人たちの死を悼む石碑で「慷慨淋漓」の文字は松平容保の書[2]。碑文は南摩綱紀が作成し、松平雪江が清書したもの[2]。1945年の水戸空襲で破損して台座と、予めとられていた拓本が残った[2]。2015年に水戸市指定文化財に指定[2]。
交通アクセス
[編集]東日本旅客鉄道常磐線・水郡線水戸駅から関東鉄道バスで大工町バス停留所を下車、すぐ
脚注
[編集]- ^ 水戸商工会議所 郷土いいとこ再発見
- ^ a b c d e “幕末の諸生派悼む 怒りや悲しみ刻んだ碑 文化財に”. 茨城新聞 (2015年2月12日). 2023年11月13日閲覧。