王鸚鵡

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王 鸚鵡(おう おうむ、? - 453年)は、南朝宋の廃帝劉劭の妃嬪。

経歴[編集]

初め、東陽公主の劉英娥(文帝の嫡出の娘、劉劭の同母姉)の侍女を務めた。厳道育という巫婆と関わりを持ち、劉英娥に厳道育を推薦した。劉英娥と劉劭(当時は皇太子)は厳道育の信徒になり、「天師」として尊崇した。劉劭は異母弟の劉濬潘淑妃の息子)と計略を用い、父文帝の呪殺のため、厳道育に頼って呪法を行った。劉英娥と王鸚鵡らの下人がみな共謀した。

やがて劉英娥が薨去した後、王鸚鵡は沈懐遠(沈懐文の弟、劉濬の腹心)が妾とした。しかし王鸚鵡は養子の陳天興(もとは劉英娥の下僕、劉劭により士官になった)と密通し、露顕を恐れて劉劭に頼り、陳天興を殺した。同じく下人であった陳慶国は恐れを抱き、元嘉29年(452年)7月、呪法のことを文帝へ密告した。文帝は大いに驚き、王鸚鵡を捕らえ、舎章殿前を掘って巫蠱の証拠も発見した。厳道育は行方をくらました(後に捕らえられる)。文帝は息子の劉劭と劉濬には甘く、2人は厳しく叱責されたが、徹底的な追及は免れた。翌年、劉劭は父帝を殺害し、自ら皇帝に即位した。王鸚鵡は劉劭の妃嬪となり、寵愛を受けた。

3か月後、武陵王の劉駿(文帝の三男、後の孝武帝)が将軍沈慶之の支援を受けて建康城内に侵入し、劉劭らは捕らえられた。劉劭の息子たちは市場で斬首され、妻と娘たちは賜死にされた。劉劭の本妻(皇后に立てられた)殷氏は賜死の際、獄丞の江恪に「皇族同士の内紛で、なぜ罪のない者も死刑にするのか?」と言った。獄丞は「偽帝の皇后を名乗ったことが死罪に値する」と答えた。殷氏は「それは一時のことで、間もなく王鸚鵡が代わって皇后に立てられるはずであった」と応じた。

厳道育と王鸚鵡は鞭刑を受け、処刑された。その後、劉劭らと共に死体は焼かれ、遺灰は長江に投げ捨てられた。

伝記資料[編集]

  • 宋書』巻82 列伝第42
  • 『宋書』巻99 列伝第59
  • 南史』巻14 列伝第4
  • 『南史』巻34 列伝第24