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'''子貢'''(しこう)は[[孔子]]の弟子にして、[[孔門十哲]]の一人。本名は'''端木賜'''(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、[[字]]が子貢。[[衛]]の人。弁舌に優れ衛、[[魯]]でその外交手腕を発揮する。[[司馬遷]]の『[[史記]]』では「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。
'''子貢'''(しこう)は[[孔子]]の弟子にして、[[孔門十哲]]の一人。本名は'''端木賜'''(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、[[字]]が子貢。[[衛]]の人。弁舌に優れ衛、[[魯]]でその外交手腕を発揮する。また、[[司馬遷]]の『[[史記]]』ではによれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。


== 子貢の弁舌 ==
== 子貢の弁舌 ==
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すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。
すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。


また、[[史記]]の記述によれば、[[魯]]を救うために[[越 (春秋)|越]]、[[呉 (春秋)|呉]]、[[斉 (春秋)|斉]]、[[晋 (春秋)|晋]]に使いし後の縦横家顔負けの弁舌をふるって魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉と晋を守ったとされる。
== 孔子との関係 ==
== 孔子との関係 ==



2006年11月27日 (月) 05:11時点における版

子貢(しこう)は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。本名は端木賜(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、が子貢。の人。弁舌に優れ衛、でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』ではによれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。

子貢の弁舌

あるとき子貢が景公に「あなたは誰を師となさっているのか」と聞かれたとき、子貢は「仲尼(孔子)が私の師です」と答えた。 しかし子貢は景公に「仲尼は賢いですか」と問われると即座に「賢いです」と答えたものの、「どのように賢いのですか」と問われると「存じません」と答えた。景公はいぶかしんで「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さがどのようなものであるのかは知らないという。それでよろしいのですか」と聞いた。

すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。

また、史記の記述によれば、を救うためにに使いし後の縦横家顔負けの弁舌をふるって魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉と晋を守ったとされる。

孔子との関係

上の逸話でも窺えるように、子貢は表現力においては時に孔子をも上回る才能を見せ、たびたび「子貢は孔子を超えている」と言われた。また、孔子を貶める意図を込めて子貢を持ち上げたと思われる人物もいたが、そのような話を耳にするたびに、子貢は巧みな喩えを用いて孔子を賞賛することで反論している。

孔子の没後、その弟子たちは孔子の墓の近くで三年間服喪したが、子貢はさらに三年間、合わせて六年もの間、喪に服したと伝わっている。孔子への賞賛は謙遜ではなく、心からの敬意によるものであっただろう。

しかし子貢は、かれが師を愛したほどには、孔子に愛されなかった。 孔子は、この才気煥発さを認めながらも、一方ではその能力の用い方に難色を示していた。