「ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)」の版間の差分

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ルートヴィヒ4世は[[1878年]]に大公妃アリスに先立たれ、[[1884年]][[4月30日]]に Alexandrina Hutten-Czapska (1854年 - 1941年)と[[貴賎結婚]]した。ルートヴィヒ4世は彼女に対して Romrod 伯爵夫人の称号を与えた。しかしこの再婚は大きな問題になり、結局1年も経たないうちに彼女とは離婚することになった。
ルートヴィヒ4世は[[1878年]]に大公妃アリスに先立たれ、[[1884年]][[4月30日]]に Alexandrina Hutten-Czapska (1854年 - 1941年)と[[貴賎結婚]]した。ルートヴィヒ4世は彼女に対して Romrod 伯爵夫人の称号を与えた。しかしこの再婚は大きな問題になり、結局1年も経たないうちに彼女とは離婚することになった。


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2006年11月23日 (木) 10:32時点における版

ルートヴィヒ4世Ludwig IV., 1837年9月12日 - 1892年3月13日)は、ヘッセン大公国の第4代大公(在位:1877年 - 1892年)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カールFriedrich Wilhelm Ludwig Karl)。ルートヴィヒ2世の大公子カール(1809年 - 1877年)とその妻であったエリーザベトプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の王子ヴィルヘルムの娘)の息子。

1837年9月12日ダルムシュタットで生まれ、1862年7月1日イギリス女王ヴィクトリアの次女アリスワイト島で結婚した。同日、ヴィクトリアはルートヴィヒに対してイギリス内でHRH(殿下)の称号を与える勅許状を出し、加えてガーター勲爵士に叙した。

1866年普墺戦争では、彼は騎兵隊を率いてオーストリア帝国側で参戦した。1870年に勃発した普仏戦争では、北ドイツ連邦の部隊を指揮してフランスと戦った。

1877年6月13日に伯父のルートヴィヒ3世が嗣子ないまま死去したため、ルートヴィヒ4世が大公位に即いた。この頃ボンで学んでいたドイツ皇太子ヴィルヘルム(後のヴィルヘルム2世)が次女のエリーザベトに求婚するが、エリーザベトが拒絶したうえ従兄妹同士にあたるということもあってこれは成立しなかった。

ルートヴィヒ4世は1878年に大公妃アリスに先立たれ、1884年4月30日に Alexandrina Hutten-Czapska (1854年 - 1941年)と貴賎結婚した。ルートヴィヒ4世は彼女に対して Romrod 伯爵夫人の称号を与えた。しかしこの再婚は大きな問題になり、結局1年も経たないうちに彼女とは離婚することになった。

1892年3月13日、ルートヴィヒ4世はダルムシュタットで死去した。大公妃アリスとの間にはヴィクトリア(1863年 - 1950年、ミルフォード=ヘイヴン侯ルイス・マウントバッテン妃)、エリーザベト(ロシアのセルゲイ大公妃)、イレーネ(1866年 - 1953年、プロイセン王子ハインリヒ妃)、エルンスト・ルートヴィヒ、フリードリヒ・ヴィルヘルム(1870年 - 1873年)、アリックスロシア皇帝ニコライ2世妃)、マリー・ヴィクトリア(1874年 - 1878年)の二男五女が生まれており、長男のエルンスト・ルートヴィヒが大公位を嗣いだ。

先代
ルートヴィヒ3世
ヘッセン大公
1877 - 1892
次代
エルンスト・ルートヴィヒ