「臣狭山命」の版間の差分
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父は[[国摩大鹿島命]]であり、子に[[雷大臣命]]がいるとされる<ref>『[[尊卑分脈]]』</ref><ref>『松尾社家系図』(『続群書類従』巻第181所収)</ref>。 |
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兄弟には[[鹿島神宮]]を奉斎した中臣鹿島連の祖・[[大楯命]]と、大鹿首、川俣連の祖・[[相鹿津臣命]]がいる。 |
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== 脚注 == |
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2022年3月22日 (火) 07:37時点における版
時代 | 古墳時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
主君 | 景行天皇、倭武天皇 |
氏族 | 中臣氏 |
父母 | 父:国摩大鹿島命 |
子 | 雷大臣命 |
臣狭山命(おみさやまのみこと)は、古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
概要
異表記として『常陸国風土記』に中臣巨狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)、『続日本紀』には意美佐夜麻がある[1]。
『常陸国風土記』香嶋郡条に鹿島神宮の御船祭の起源として登場する。同条によると、倭武天皇の御代に、天之大神が臣狭山命に御舟を(もって天皇に)仕えるよう託宣し、臣狭山命はこれに従ったとされる。大神は夜が明けると「舟は海に置いた」と言い、臣狭山命がこれを探すと、舟は岡の上にあった。大神は「舟は岡の上に置いた」と言い、これを探すと今度は海に舟があった。このやり取りを繰り返す内に、臣狭山命はとうとう恐れ畏んで新たに長さ二丈余の舟三隻造らせて献上したとされる。
『続日本紀』では天御中主命の二十世・伊賀津臣の父として登場する。
『新撰姓氏録』では津速魂命の十三世孫、天児屋根命の十世孫とされ、中臣酒人宿祢、中臣高良比連の祖とされる[2][3]。
狭山神社で配祀神として祀られる。
宝賀寿男による異説
中臣氏の系図では倭建命の東征に随行したと記され、臣狭山命が実際に東北地方まで遠征したかは不明であるが、東北地方における鹿島神の広範な分布や東北占部の存在は、中臣氏の先祖や部民関係者が東征に随行、貢献したことによるものと見られ、また『常陸国風土記』には崇神朝の神聞勝命(臣狭山命の先祖)が登場することからも、中臣氏本宗家である神聞勝命、国摩大鹿島命、臣狭山命の三代ほどが東国で活動した可能性があると主張している[4]。
系譜
父は国摩大鹿島命であり、子に雷大臣命がいるとされる[5][6]。