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[[崇寧]]年間に[[進士]]に及第した。立派な美少年の上に口達者であり、[[元符]]3年([[1100年]])に[[蔡京]]の宰相復帰を助けて、蔡京の抜擢で校書郎から御史中丞に上った。蔡京が引退すると、その後を継いで宰相となった。[[徽宗]]に迎合して多くの珍宝や奇品を献上し、信任を受けた。一方、私財の調達に狂奔、公金の横領の上に、婦女の奪取など横暴を極めた。
[[崇寧]]年間に[[進士]]に及第した。立派な美少年の上に口達者であり、[[元符]]3年([[1100年]])に[[蔡京]]の宰相復帰を助けて、蔡京の抜擢で校書郎から御史中丞に上った。蔡京が引退すると、その後を継いで宰相となった。[[徽宗]]に迎合して多くの珍宝や奇品を献上し、信任を受けた。一方、私財の調達に狂奔、公金の横領の上に、婦女の奪取など横暴を極めた。


[[宣和]]7年12月23日(西暦で1126年1月25日)、[[金 (王朝)|金]]軍の侵攻に慌てた徽宗は、長男の[[欽宗]]に譲位した。王黼は、以前に鄆王[[趙楷]](徽宗の次男)を太子に擁立しようと画策したことが露見して、欽宗により免職された。金軍の来襲に、王黼は財産を持って先に逃亡したが、[[杞県|雍丘]]で捕らえられた。直後に、蔡京・[[童貫]]・{{仮リンク|梁師成|zh|梁师成}}・{{仮リンク|朱勔|zh|朱勔}}・{{仮リンク|李邦彦 (宋)|label=李邦彦|zh|李邦彦}}と共に「六賊」とされ、それぞれ遠方へ流罪に処せられた。まもなく欽宗の命により、開封府尹の聶山の手で斬首された。
[[宣和]]7年12月23日(西暦で1126年1月25日)、[[金 (王朝)|金]]軍の侵攻に慌てた徽宗は、長男の[[欽宗]]に譲位した。王黼は、以前に鄆王[[趙楷]](徽宗の次男)を太子に擁立しようと画策したことが露見して、欽宗により免職された。金軍の来襲に、王黼は財産を持って先に逃亡したが、[[杞県|雍丘]]で捕らえられた。直後に、蔡京・[[童貫]]・{{仮リンク|梁師成|zh|梁师成}}・{{仮リンク|朱勔|zh|朱勔}}・{{仮リンク|李邦彦 (宋)|label=李邦彦|zh|李邦彦}}と共に「'''{{仮リンク|六賊|zh|六賊}}'''」とされ、それぞれ遠方へ流罪に処せられた。まもなく欽宗の命により、開封府尹の聶山の手で斬首された。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年9月23日 (木) 08:10時点における版

王 黼(おう ほ、1079年 - 1126年)は、北宋末期の宰相将明開封府の人。徽宗勅撰の青銅器図録『宣和博古図』の編纂者の一人[1]

生涯

崇寧年間に進士に及第した。立派な美少年の上に口達者であり、元符3年(1100年)に蔡京の宰相復帰を助けて、蔡京の抜擢で校書郎から御史中丞に上った。蔡京が引退すると、その後を継いで宰相となった。徽宗に迎合して多くの珍宝や奇品を献上し、信任を受けた。一方、私財の調達に狂奔、公金の横領の上に、婦女の奪取など横暴を極めた。

宣和7年12月23日(西暦で1126年1月25日)、軍の侵攻に慌てた徽宗は、長男の欽宗に譲位した。王黼は、以前に鄆王趙楷(徽宗の次男)を太子に擁立しようと画策したことが露見して、欽宗により免職された。金軍の来襲に、王黼は財産を持って先に逃亡したが、雍丘で捕らえられた。直後に、蔡京・童貫梁師成中国語版朱勔中国語版李邦彦中国語版と共に「六賊中国語版」とされ、それぞれ遠方へ流罪に処せられた。まもなく欽宗の命により、開封府尹の聶山の手で斬首された。

脚注

参考文献