「姚広孝」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Yao Guang Xiao.jpg|thumb|right|200px|姚広孝]] |
[[File:Yao Guang Xiao.jpg|thumb|right|200px|姚広孝]] |
||
'''姚 広孝'''(よう こうこう、[[1335年]] |
'''姚 広孝'''(よう こうこう、[[1335年]] - [[1418年]])は、[[明]]初の[[政治家]]・[[軍師]]・[[僧侶]]。'''道衍'''(どうえん)の名でも知られる。 |
||
== 人物 == |
== 人物 == |
||
[[蘇州 (古代)|蘇州]][[相城区|長洲県]]の出身。[[医者]]の家柄であったが、14歳で出家して道衍と称し、以後は[[仏法]]や[[陰陽術]]を学んだ。[[1385年]]、[[朱元璋|洪武帝]]の招聘を受けてその四男の燕王朱棣(後の[[永楽帝]])の軍師として仕えた。朱棣からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、[[建文帝]]が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また朱棣自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、朱棣を永楽帝として即位させた([[靖難の変]])。 |
|||
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時 |
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。 |
||
永楽帝時 |
永楽帝時期を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。 |
||
== 逸話 == |
== 逸話 == |
||
* [[劉秉忠]]の死後、およそ100年を経て |
* [[劉秉忠]]の死後、およそ100年を経て永楽帝のブレーンとなった姚広孝は彼の生まれ変わりとまで称された<ref>{{Cite wikisource|title=明史/卷145|author=[[張廷玉]]|wslanguage=zh}}「姚廣孝,長洲人,本醫家子。年十四,度為僧,名道衍,字斯道。事道士席應真,得其陰陽術數之學。嘗遊嵩山寺,相者袁珙見之曰:「是何異僧!目三角,形如病虎,性必嗜殺,'''劉秉忠'''流也。」道衍大喜。」</ref>。 |
||
* 燕王に初めて会った際、「あなたに白い帽子をかぶせましょう |
* 燕王朱棣に初めて会った際、「あなたに白い帽子をかぶせましょう」と言ったという。「王」の字に「白」の字を乗せることで「皇」という字になるから、「あなたを王から皇帝にしてさし上げよう」という意味である。 |
||
* 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。 |
* 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。 |
||
22行目: | 22行目: | ||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:ようこうこう}} |
{{DEFAULTSORT:よう こうこう}} |
||
[[Category:明代の人物]] |
[[Category:明代の人物]] |
||
[[Category:中国の禅僧 (臨済宗)]] |
[[Category:中国の禅僧 (臨済宗)]] |
2021年9月1日 (水) 06:48時点における版
姚 広孝(よう こうこう、1335年 - 1418年)は、明初の政治家・軍師・僧侶。道衍(どうえん)の名でも知られる。
人物
蘇州長洲県の出身。医者の家柄であったが、14歳で出家して道衍と称し、以後は仏法や陰陽術を学んだ。1385年、洪武帝の招聘を受けてその四男の燕王朱棣(後の永楽帝)の軍師として仕えた。朱棣からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、建文帝が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また朱棣自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、朱棣を永楽帝として即位させた(靖難の変)。
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。
永楽帝時期を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。
逸話
- 劉秉忠の死後、およそ100年を経て永楽帝のブレーンとなった姚広孝は彼の生まれ変わりとまで称された[1]。
- 燕王朱棣に初めて会った際、「あなたに白い帽子をかぶせましょう」と言ったという。「王」の字に「白」の字を乗せることで「皇」という字になるから、「あなたを王から皇帝にしてさし上げよう」という意味である。
- 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。