「織田信良」の版間の差分

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天正12年(1584年)、[[伊勢国]]で誕生。一説には、父信雄の改易後、一時的に[[細川忠興]]のもとに身を寄せたという。[[元和]]年間、父信雄から上野国[[甘楽郡]]などで2万石を分け与えられる。はじめは甘楽郡福島村に陣屋を構え、後に小幡村に移転し、城下町や灌漑用水設備の整備など、藩政の基礎固めに努めた。事実上、父信雄は隠居したものと思われる。[[織田秀雄]]・高雄らの兄は既に亡くなっていたようである。なお、父信雄は[[大和国]][[宇陀郡]]などで3万1200石を領有し、京都で暮らした。後にこの隠居料をめぐり、信良の息子[[織田信昌|信昌]]と弟[[織田高長|高長]]の間で相続争いが起きた。
天正12年(1584年)、[[伊勢国]]で誕生。一説には、父信雄の改易後、一時的に[[細川忠興]]のもとに身を寄せたという。[[元和]]年間、父信雄から上野国[[甘楽郡]]などで2万石を分け与えられる。はじめは甘楽郡福島村に陣屋を構え、後に小幡村に移転し、城下町や灌漑用水設備の整備など、藩政の基礎固めに努めた。事実上、父信雄は隠居したものと思われる。[[織田秀雄]]・高雄らの兄は既に亡くなっていたようである。なお、父信雄は[[大和国]][[宇陀郡]]などで3万1200石を領有し、京都で暮らした。後にこの隠居料をめぐり、信良の息子[[織田信昌|信昌]]と弟[[織田高長|高長]]の間で相続争いが起きた。


元和2年10月([[1616年]])、従五位上侍従に叙任する。この頃、領地を分け与えられたと考えられる。元和9年12月([[1625年]])、従四位上左少将に昇進する。なお、同年11月7日、信良の長女が[[徳川秀忠]]の息子・[[徳川忠長|忠長]]と結婚している。官位の高さは、織田家の嫡流であること、徳川家の外戚であることなどを考えられる。その後、小幡藩織田家は[[明和事件]]に巻き込まれるまで、国主格の待遇を受けた。なお、[[宇陀松山藩]]織田家も国主格の待遇を受けた。
元和2年10月([[1616年]])、従五位上侍従に叙任する。この頃、領地を分け与えられたと考えられる。元和9年12月、従四位上左少将に昇進する。なお、同年11月7日、信良の長女が[[徳川秀忠]]の息子・[[徳川忠長|忠長]]と結婚している。官位の高さは、織田家の嫡流であること、徳川家の外戚であることなどを考えられる。その後、小幡藩織田家は[[明和事件]]に巻き込まれるまで、国主格の待遇を受けた。なお、[[宇陀松山藩]]織田家も国主格の待遇を受けた。


元和8年1月5日、茶会を催し、[[佐竹義宣]]らを招く。元和9年5月、徳川秀忠に従って上洛する。元和10年1月2日、[[伊達政宗]]・[[毛利秀元]]らとともに[[江戸城]]西丸の[[徳川家光]]のもとに出仕する。同月、徳川秀忠の朝廷に対する使者として上洛する。寛永3年5月17日(1626年)、父に先立って43歳で死去し、家督は次男[[織田信昌|信昌]]が継いだ。墓所は小幡の崇福寺。法号は心芳院。
元和8年1月5日、茶会を催し、[[佐竹義宣]]らを招く。元和9年5月、徳川秀忠に従って上洛する。元和10年1月2日、[[伊達政宗]]・[[毛利秀元]]らとともに[[江戸城]]西丸の[[徳川家光]]のもとに出仕する。同月、徳川秀忠の朝廷に対する使者として上洛する。寛永3年5月17日(1626年)、父に先立って43歳で死去し、家督は次男[[織田信昌|信昌]]が継いだ。墓所は小幡の崇福寺。法号は心芳院。

2006年10月18日 (水) 00:45時点における版

織田 信良(おだ のぶよし、1584年天正12年)-1626年7月10日寛永3年5月17日))は、上野小幡藩の初代藩主。祖父は織田信長織田信雄の四男。母は木造具政の娘。幼名は勝法師。は信良。仮名 (通称)因幡守、兵部少輔。官位は従五位上侍従、従四位上左少将。

天正12年(1584年)、伊勢国で誕生。一説には、父信雄の改易後、一時的に細川忠興のもとに身を寄せたという。元和年間、父信雄から上野国甘楽郡などで2万石を分け与えられる。はじめは甘楽郡福島村に陣屋を構え、後に小幡村に移転し、城下町や灌漑用水設備の整備など、藩政の基礎固めに努めた。事実上、父信雄は隠居したものと思われる。織田秀雄・高雄らの兄は既に亡くなっていたようである。なお、父信雄は大和国宇陀郡などで3万1200石を領有し、京都で暮らした。後にこの隠居料をめぐり、信良の息子信昌と弟高長の間で相続争いが起きた。

元和2年10月(1616年)、従五位上侍従に叙任する。この頃、領地を分け与えられたと考えられる。元和9年12月、従四位上左少将に昇進する。なお、同年11月7日、信良の長女が徳川秀忠の息子・忠長と結婚している。官位の高さは、織田家の嫡流であること、徳川家の外戚であることなどを考えられる。その後、小幡藩織田家は明和事件に巻き込まれるまで、国主格の待遇を受けた。なお、宇陀松山藩織田家も国主格の待遇を受けた。

元和8年1月5日、茶会を催し、佐竹義宣らを招く。元和9年5月、徳川秀忠に従って上洛する。元和10年1月2日、伊達政宗毛利秀元らとともに江戸城西丸の徳川家光のもとに出仕する。同月、徳川秀忠の朝廷に対する使者として上洛する。寛永3年5月17日(1626年)、父に先立って43歳で死去し、家督は次男信昌が継いだ。墓所は小幡の崇福寺。法号は心芳院。

正室は大納言・久我通興の三男下津俸庵の娘。子女は2男3女あり。次女と三女は稲葉信通に嫁いだ。

先代:
(信雄)

織田信雄系信良流
初代

次代:
信昌