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'''六'''(りく<ref>訳注: 読みは吉田賢抗『新釈漢文大系第85巻 史記5(世家5)』明治書院、1977年による</ref>、[[ピン音]]:lù)は、[[周]]の時代に[[淮河]]流域にあった諸侯国、[[皋陶]]の後裔で、[[春秋時代]]後期には[[楚 (春秋)|楚]]の[[付庸国]]となっていて、楚の[[穆王 (楚)|穆王]]に滅ぼされた。 |
'''六'''(りく<ref>訳注: 読みは吉田賢抗『新釈漢文大系第85巻 史記5(世家5)』明治書院、1977年による</ref>、[[ピン音]]:lù)は、[[周]]の時代に[[淮河]]流域にあった諸侯国、[[皋陶]]の後裔で、[[春秋時代]]後期には[[楚 (春秋)|楚]]の[[付庸国]]となっていて、楚の[[穆王 (楚)|穆王]]に滅ぼされた。 |
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[[郭沫若]]の「両周金文辞体系考釈」では、[[周|西周]]青銅器の銘文に出現する「録」及び「録伯」は、後の春秋時代の六であるとしている。西周時代の周王が録伯に[[:zh:淮夷|淮夷]]に対する防衛警備を命令した史実が<ref>楊伯峻『春秋左伝注・文公五年』、中華書局、1990年5月第2版、538</ref>、青銅器の銘文に記録されている。 |
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春秋時代に楚が隆盛となり、 |
春秋時代に楚が隆盛となり、六は楚の付庸国と成り下がった。「春秋・文公5年」(紀元前622年)の記載で、六は楚に滅ぼされたとある。「春秋左伝」での補足で、これは六が楚に背き東夷と親交を結んだ結果であるとしている。同じ年、楚は現在の[[河南省]][[信陽市]][[固始県]]の[[蓼 (春秋)|蓼]]を滅ぼした。両国の滅亡は、[[魯]]の[[大夫#中国における大夫|大夫]]臧辰(臧文仲)に皋陶(庭堅)の後裔は凋落してしまったと嘆かせた<ref>楊伯峻『春秋左伝注・文公五年』、中華書局、1990年5月第2版、539</ref>。 |
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注意に値することとして、『史記』巻14「十二諸侯年表」の記載では楚の[[成王 (楚)|成王惲]]26年「 |
注意に値することとして、『史記』巻14「十二諸侯年表」の記載では楚の[[成王 (楚)|成王惲]]26年「六・[[英 (春秋)|英]]を滅ぼす」とあり、楚の穆王商臣4年では「六・蓼を滅ぼす」とある。後者は上に述べたように『春秋』経伝記載の穆王が六・蓼の両国を滅ぼすということであるが、『史記』巻40「楚世家」では成王26年、英を滅ぼすとあるのみで、六を滅ぼすとの記載がない。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年3月30日 (火) 01:55時点における版
不明 - 前622年 | |
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国姓 | 偃姓 |
爵位 | 子爵 |
国都 |
六 (安徽省六安市金安区) |
滅亡原因 | 楚の穆王により併合 |
史書の記載 |
『春秋左氏伝』 (文公5年) |
周朝諸侯国一覧 |
六(りく[1]、ピン音:lù)は、周の時代に淮河流域にあった諸侯国、皋陶の後裔で、春秋時代後期には楚の付庸国となっていて、楚の穆王に滅ぼされた。
郭沫若の「両周金文辞体系考釈」では、西周青銅器の銘文に出現する「録」及び「録伯」は、後の春秋時代の六であるとしている。西周時代の周王が録伯に淮夷に対する防衛警備を命令した史実が[2]、青銅器の銘文に記録されている。
春秋時代に楚が隆盛となり、六は楚の付庸国と成り下がった。「春秋・文公5年」(紀元前622年)の記載で、六は楚に滅ぼされたとある。「春秋左伝」での補足で、これは六が楚に背き東夷と親交を結んだ結果であるとしている。同じ年、楚は現在の河南省信陽市固始県の蓼を滅ぼした。両国の滅亡は、魯の大夫臧辰(臧文仲)に皋陶(庭堅)の後裔は凋落してしまったと嘆かせた[3]。
注意に値することとして、『史記』巻14「十二諸侯年表」の記載では楚の成王惲26年「六・英を滅ぼす」とあり、楚の穆王商臣4年では「六・蓼を滅ぼす」とある。後者は上に述べたように『春秋』経伝記載の穆王が六・蓼の両国を滅ぼすということであるが、『史記』巻40「楚世家」では成王26年、英を滅ぼすとあるのみで、六を滅ぼすとの記載がない。