「兒説」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
加筆修正、出典追加、一部コメントアウト |
編集の要約なし |
||
10行目: | 10行目: | ||
|ラテン字= ni shuo |
|ラテン字= ni shuo |
||
}} |
}} |
||
'''兒 説'''(げい えつ<ref name=":0">[[金谷治]]訳注 『韓非子』第3冊、[[岩波文庫]]、1994年、27頁。</ref>、生没年不詳)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。姓は'''兒'''(倪、貎、げい)、 |
'''兒 説'''(げい えつ<ref name=":0">[[金谷治]]訳注 『韓非子』第3冊、[[岩波文庫]]、1994年、27頁。</ref>、生没年不詳)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。姓は'''兒'''(倪、貎、げい)、[[字]]は'''説'''(えつ)。'''兒辯'''(げいべん)、'''兒辨'''などとも呼ばれる。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。[[名家 (諸子百家)|名家]]の学説「[[白馬非馬]]」を説いた。『[[韓非子]]』外儲説左上、『[[戦国策]]』斉策に登場する。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
17行目: | 17行目: | ||
当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は[[白馬非馬]]説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が『[[韓非子]]』に伝えられている。 |
当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は[[白馬非馬]]説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が『[[韓非子]]』に伝えられている。 |
||
『[[戦国策]]』では[[田嬰 |
『[[戦国策]]』では、[[田嬰|斉の靖郭君]](田嬰)の[[食客]]として登場し、[[宣王 (斉)|斉の宣王]]と対話する。<!-- コメントアウト(同名の別人。執筆時の出典は以下)[http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_63.html 巧言令色、鮮なし仁(論語 - 学而[3<nowiki>]</nowiki>)] |
||
兒説は、 |
兒説は、 |
||
27行目: | 27行目: | ||
という言葉から来たものであるらしい。 --> |
という言葉から来たものであるらしい。 --> |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*[[陳舜臣]] 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』平凡社、1986年 |
*[[陳舜臣]] 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』平凡社、1986年 |
2020年12月21日 (月) 08:22時点における版
兒説 | |
---|---|
出身地: | 宋 |
職業: | 稷下の学士 |
各種表記 | |
繁体字: | 兒説 |
簡体字: | 兒説 |
拼音: | ní shuō |
ラテン字: | ni shuo |
和名表記: | げい えつ |
発音転記: | ニー・シュオ |
兒 説(げい えつ[1]、生没年不詳)は、中国戦国時代の思想家。姓は兒(倪、貎、げい)、字は説(えつ)。兒辯(げいべん)、兒辨などとも呼ばれる。宋の出身だが斉に行き、稷下の学士の一人となった。名家の学説「白馬非馬」を説いた。『韓非子』外儲説左上、『戦国策』斉策に登場する。
概要
白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という白馬非馬説を唱えた。それにより稷下の学士たちを屈服させた。白馬非馬説は他に公孫竜も唱えた。
当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は白馬非馬説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が『韓非子』に伝えられている。
『戦国策』では、斉の靖郭君(田嬰)の食客として登場し、斉の宣王と対話する。
参考文献
- 陳舜臣 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』平凡社、1986年