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'''兒 説'''(げい つ、生没年不詳)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。姓は'''兒'''(倪、貎、げい)、名は'''辯'''(べん)、[[字]]は'''説'''(つ)。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。白は色にづけられた概念であり、馬は形にづけられた概念であるからにして、白馬は二つ概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱え、稷下の学者を降参させことで有名兒説はいわゆる[[弁者]]であった。白馬非馬は他に[[公孫竜]]によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった
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== 概要 ==
白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱えた。それにより稷下の学士たちを屈服させた。白馬非馬説は他に[[公孫竜]]も唱えた。

当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は[[白馬非馬]]説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が[[韓非子]]に伝えられている。

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当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は[[白馬非馬]]説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が[[韓非子]]に伝えられている。

== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[陳舜臣]] 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』 (東洋印刷/[[凸版印刷]]/大口製本印刷1986年
*[[陳舜臣]] 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』平凡社、1986年

== 外部リンク ==
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== 脚注 ==
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2020年12月21日 (月) 08:00時点における版

兒説
出身地:
職業: 稷下の学士
各種表記
繁体字 兒説
簡体字 兒説
拼音 ní shuō
ラテン字 ni shuo
和名表記: げい えつ
発音転記: ニー・シュオ
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兒 説(げい えつ[1]、生没年不詳)は、中国戦国時代の思想家。姓は(倪、貎、げい)、名はまたは(べん)、(えつ)。の出身だがに行き、稷下の学士の一人となった。名家の学説「白馬非馬」を説いた。『韓非子』外儲説左上、『戦国策』斉策に登場する。

概要

白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という白馬非馬説を唱えた。それにより稷下の学士たちを屈服させた。白馬非馬説は他に公孫竜も唱えた。

当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は白馬非馬説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が『韓非子』に伝えられている。

戦国策』では田嬰(靖郭君)の食客として登場し、斉宣王と対話する。

参考文献

  • 陳舜臣 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』平凡社、1986年

脚注

  1. ^ 金谷治訳注 『韓非子』第3冊、岩波文庫、1994年、27頁。