「兒説」の版間の差分

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'''兒 説'''(げい せつ、生没年不)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。姓は'''兒'''(倪、貎、げい)、名は'''辯'''(べん)、[[字]]は'''説'''(せつ)。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが、[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱え、[[稷下の学士|稷下]]の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる[[弁者]]であった。[[白馬非馬]]説は他に[[公孫竜]]によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。
'''兒 説'''(げい せつ、生没年不)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の思想家。姓は'''兒'''(倪、貎、げい)、名は'''辯'''(べん)、[[字]]は'''説'''(せつ)。[[宋 (春秋)|宋]]の出身だが、[[田斉|斉]]に行き、[[稷下の学士]]の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という[[白馬非馬]]説を唱え、稷下の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる[[弁者]]であった。白馬非馬説は他に[[公孫竜]]によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。


兒説は、
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{{quote|仁は心のみ。己が為にするの心有れば、則ち一言一色、皆な敢へて放(ほし)いままにせず。如もし諸心を事とせずして、以て言を為し、而して其の言を巧みにし、以て人の我を親しまんことを求め、諸心を事とせずして、以て色を為し、而して其の色を善くし、以て人の我を悦ばんことを求めば、則ち外を務めて内を務めず、人の為にして己が為にせず、此の心外に馳せて天理日に喪(うしな)ふ、其れ仁有る者は鮮(すく)なし。}}
{{quote|仁は心のみ。己が為にするの心有れば、則ち一言一色、皆な敢へて放(ほし)いままにせず。如もし諸心を事とせずして、以て言を為し、而して其の言を巧みにし、以て人の我を親しまんことを求め、諸心を事とせずして、以て色を為し、而して其の色を善くし、以て人の我を悦ばんことを求めば、則ち外を務めて内を務めず、人の為にして己が為にせず、此の心外に馳せて天理日に喪(うしな)ふ、其れ仁有る者は鮮(すく)なし。}}


と言ったことでも有名。これは、[[論語]]に記されている[[孔子]]の言葉、
と言ったことでも有名。これは、[[論語]]に記されている[[孔子]]の言葉、


{{quote|子曰く、 巧言令色、鮮(すく)なし仁。}}
{{quote|子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。}}


という言葉から来たものであるらしい。
という言葉から来たものであるらしい。

2020年11月14日 (土) 15:05時点における版

兒説
プロフィール
出生: 不詳
死去: 不詳
出身地: 河南省と思われる)
職業: 稷下の学士(論者)
各種表記
繁体字 兒説
簡体字 兒説
拼音 ní shuō
ラテン字 ni shuo
和名表記: げい せつ
発音転記: ニー・シュオ
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兒 説(げい せつ、生没年不詳)は、中国戦国時代の思想家。姓は(倪、貎、げい)、名は(べん)、(せつ)。の出身だが、に行き、稷下の学士の一人となった。白は色に名づけられた概念であり、馬は形に名づけられた概念であるからにして、白馬は二つの概念であり、一つの概念である馬とは別物だ、という白馬非馬説を唱え、稷下の学者を降参させたことで有名。兒説はいわゆる弁者であった。白馬非馬説は他に公孫竜によって唱えられたが、兒説のほうが少し先であった。

兒説は、

仁は心のみ。己が為にするの心有れば、則ち一言一色、皆な敢へて放(ほし)いままにせず。如もし諸心を事とせずして、以て言を為し、而して其の言を巧みにし、以て人の我を親しまんことを求め、諸心を事とせずして、以て色を為し、而して其の色を善くし、以て人の我を悦ばんことを求めば、則ち外を務めて内を務めず、人の為にして己が為にせず、此の心外に馳せて天理日に喪(うしな)ふ、其れ仁有る者は鮮(すく)なし。

と言ったことでも有名。これは、『論語』に記されている孔子の言葉、

子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

という言葉から来たものであるらしい。

当時、関所では馬に通行税をかけていた。兒説は白馬に乗っていけば通行税を取られない、と思って白馬に乗っていったが、役人が税を取ろうとした。そこで、兒説は白馬非馬説を唱えたが、役人の方が引かずに、結局通行税を取られてしまった、という話が韓非子に伝えられている。

参考文献

  • 陳舜臣 『中国の歴史2⃣ 大統一時代 漢王朝の光と影』 (東洋印刷/凸版印刷/大口製本印刷1986年)

外部リンク