「ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
カテゴリ変更
m 官職の補充
1行目: 1行目:
{{Infobox 共和政ローマ
{{基礎情報 貴族(西洋)
|人名= ガイウス・クラウディウス・プルケル<br>C. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher
|各国語表記={{Lang|la|Gaius Claudius Pulcher}}
|人名= ガイウス・クラウディウス・プルケル
|画像=
|画像=
|見出し=
|見出し=
8行目: 7行目:
|出身階級=[[パトリキ]]
|出身階級=[[パトリキ]]
|氏族名=[[クラウディウス氏族]]
|氏族名=[[クラウディウス氏族]]
|家族名=プルケル
|官職=[[プラエトル|法務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前185年]])</span><br>[[執政官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前180年]])</span><br>[[ケンソル|監察官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前169年]])</span>
|官職=[[アウグル]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前195年]]~167年)</span><br>外人担当補充[[プラエトル|法務官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前180年]])</span><br>[[執政官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前177年]])</span><br>[[プロコンスル]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前176年]])</span><br>[[トリブヌス・ミリトゥム]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前171年]])</span><br>[[ケンソル|監察官]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前169年]])</span><br>[[レガトゥス]]<span style="font-size: smaller">([[紀元前167年]])</span>
|指揮戦争=対イストリア戦争<br>対グリア戦争
|指揮戦争=対イストリア戦争<br>対グリア戦争
}}
}}


'''ガイウス・クラウディウス・プルケル'''('''{{lang-la|Gaius Claudius Pulcher (C. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher)}}'''、 ? - [[紀元前167年]])は、共和政ローマの元老院議員。父は[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]。
'''ガイウス・クラウディウス・プルケル'''('''{{lang-la|Gaius Claudius Pulcher}}'''、 ? - [[紀元前167年]])は、共和政ローマの元老院議員。父は[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]。


[[アウグル]]に[[紀元前195年]]、[[プラエトル]]に[[紀元前180年]]に選ばれる。[[紀元前177年]]に[[コンスル]]に就任、[[イストリア半島]]に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度は[[リグーリア|リグリア]]へ、そして勝利を収める。[[紀元前169年]]に[[ケンソル]]に選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルの[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]が民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして[[紀元前167年]]に外交のために[[マケドニア王国|マケドニア]]へ赴き、同年死去した。
[[アウグル]]に[[紀元前195年]]、[[プラエトル]]に[[紀元前180年]]に選ばれる。[[紀元前177年]]に[[コンスル]]に就任、[[イストリア半島]]に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度は[[リグーリア|リグリア]]へ、そして勝利を収める。[[紀元前169年]]に[[ケンソル]]に選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルの[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]が民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして[[紀元前167年]]に外交のために[[マケドニア王国|マケドニア]]へ赴き、同年死去した。
24行目: 24行目:
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[共和政ローマ監察官一覧]]
*[[共和政ローマ監察官一覧]]
*[[共和政ローマ鳥卜官一覧]]


{{s-start}}
{{s-start}}
40行目: 41行目:
{{DEFAULTSORT:くらうていうす ふるける かいうす}}
{{DEFAULTSORT:くらうていうす ふるける かいうす}}
[[Category:紀元前2世紀の古代ローマ人]]
[[Category:紀元前2世紀の古代ローマ人]]
[[category:執政官]]
[[Category:執政官]]
[[category:ケンソル]]
[[Category:ケンソル]]
[[category:クラウディウス氏族|ふるける かいうす]]
[[Category:アウグル]]
[[Category:クラウディウス氏族|ふるける かいうす]]
[[Category:紀元前2世紀生]]
[[Category:紀元前2世紀生]]
[[category:紀元前167年没]]
[[Category:紀元前167年没]]

2020年10月27日 (火) 12:09時点における版


ガイウス・クラウディウス・プルケル
C. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher
出生 不明
死没 紀元前167年
出身階級 パトリキ
一族 プルケル
氏族 クラウディウス氏族
官職 アウグル紀元前195年~167年)
外人担当補充法務官紀元前180年
執政官紀元前177年
プロコンスル紀元前176年
トリブヌス・ミリトゥム紀元前171年
監察官紀元前169年
レガトゥス紀元前167年
指揮した戦争 対イストリア戦争
対リグリア戦争
テンプレートを表示

ガイウス・クラウディウス・プルケルラテン語: Gaius Claudius Pulcher、 ? - 紀元前167年)は、共和政ローマの元老院議員。父はアッピウス・クラウディウス・プルケル

アウグル紀元前195年プラエトル紀元前180年に選ばれる。紀元前177年コンスルに就任、イストリア半島に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度はリグリアへ、そして勝利を収める。紀元前169年ケンソルに選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルのティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして紀元前167年に外交のためにマケドニアへ赴き、同年死去した。

家族

関連項目

公職
先代
マルクス・ユニウス・ブルトゥス
アウルス・マンリウス・ウルソ
執政官
同僚:ティベリウス・センプロニウス・グラックス I

紀元前177年

次代
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス
クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌス
先代
クィントゥス・フルウィウス・フラックス
マルクス・フルウィウス・ノビリオル
紀元前174年 LI
監察官
同僚:ティベリウス・センプロニウス・グラックス
紀元前169年 LII
次代
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
クィントゥス・マルキウス・ピリップス
紀元前164年 LIII