「御座船」の版間の差分

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== 概略 ==
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[[image:Seki middle class Japanese vessel.jpg|300px|thumb|徳川将軍家の御座船天地丸]]
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その型は時代や用途によってことなる。[[屋形]](上部構造物)だけでも数種あるが、総じて中倉を屋形とし、これを上段といって、その後を次之間、その後倉を舳屋根またその後に出屋根というものがあり、その上に[[太鼓]]楼がある。上段の前倉を[[床几]]といい、その前に表出屋根、その下に小床几、左右に旅屋根がある。
その型は時代や用途によってなる。
[[屋形]](上部構造物)だけでも数種あるが、総じて中倉を屋形とし、これを上段といって、その後を次之間、その後倉を舳屋根またその後に出屋根というものがあり、その上に[[太鼓]]楼がある。上段の前倉を[[床几]]といい、その前に表出屋根、その下に小床几、左右に旅屋根がある。


天皇の御座船は[[茅葺|茅萱葺き]]で、[[千木]]・[[鰹木]]を上せる。将軍の御座船は[[檜皮葺|檜皮葺き]]で[[鯱]]を上せる。そのほかのものは栃葺きで箱棟鬼板があり、[[唐破風]]、てり破風、むくり破風、あるいは[[入母屋造]]、横棟造で、上屋形があり、また左右の高欄胴舟梁まであるのが普通であった。
天皇の御座船は[[茅葺|茅萱葺き]]で、[[千木]]・[[鰹木]]を上せる。将軍の御座船は[[檜皮葺|檜皮葺き]]で[[鯱]]を上せる。そのほかのものは栃葺きで箱棟鬼板があり、[[唐破風]]、てり破風、むくり破風、あるいは[[入母屋造]]、横棟造で、上屋形があり、また左右の高欄胴舟梁まであるのが普通であった。


[[室町幕府]]の足利将軍の御座船は、「[[梅松論]]」に「将軍の御座船は錦の御旗に日を出して、[[天照大神]][[八幡大菩薩]]を金の文字にて打ち付られたりければ、日に輝てきらめきたりし、手をときて、浦風に飜し、御船を出さるる時は、毎度鼓を鳴されし間、同時に数千艘の舟帆を上て、淡路の瀬戸五十町をせばしときしり合て、更に海は見えず、云々」とあるのをもってその一端を窺うことができる。
[[室町幕府]]の足利将軍の御座船は、「[[梅松論]]」に{{quotation|「将軍の御座船は錦の御旗に日を出して、[[天照大神]][[八幡大菩薩]]を金の文字にて打ち付られたりければ、日に輝てきらめきたりし、手をときて、浦風に飜し、御船を出さるる時は、毎度鼓を鳴されし間、同時に数千艘の舟帆を上て、淡路の瀬戸五十町をせばしときしり合て、更に海は見えず、云々」}}とあるのをもってその一端を窺うことができる。


[[江戸時代]]には大型軍船の保有が禁止([[大船建造の禁]])されたところ、代わりに各[[大名]]たちは、中型軍船である[[関船]]を華麗に飾り立てて海御座船として使用した。徳川将軍家も、御座船として小[[艪]]76挺立の関船「[[天地丸]]」を江戸時代を通じて運用した。
[[江戸時代]]には大型軍船の保有が禁止([[大船建造の禁]])されたところ、代わりに各[[大名]]たちは、中型軍船である[[関船]]を華麗に飾り立てて海御座船として使用した。徳川将軍家も、御座船として小[[艪]]76挺立の関船「[[天地丸]]」を江戸時代を通じて運用した。

2020年9月29日 (火) 15:51時点における版

御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇公家将軍大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。西洋でいう遊行用のヨットに相当する性格の船である。河川用のものは川御座船、海用のものは海御座船とも呼ぶ。

概略

徳川将軍家の御座船天地丸

その型は時代や用途によって異なる。

屋形(上部構造物)だけでも数種あるが、総じて中倉を屋形とし、これを上段といって、その後を次之間、その後倉を舳屋根またその後に出屋根というものがあり、その上に太鼓楼がある。上段の前倉を床几といい、その前に表出屋根、その下に小床几、左右に旅屋根がある。

天皇の御座船は茅萱葺きで、千木鰹木を上せる。将軍の御座船は檜皮葺きを上せる。そのほかのものは栃葺きで箱棟鬼板があり、唐破風、てり破風、むくり破風、あるいは入母屋造、横棟造で、上屋形があり、また左右の高欄胴舟梁まであるのが普通であった。

室町幕府の足利将軍の御座船は、「梅松論」に

「将軍の御座船は錦の御旗に日を出して、天照大神八幡大菩薩を金の文字にて打ち付られたりければ、日に輝てきらめきたりし、手をときて、浦風に飜し、御船を出さるる時は、毎度鼓を鳴されし間、同時に数千艘の舟帆を上て、淡路の瀬戸五十町をせばしときしり合て、更に海は見えず、云々」

とあるのをもってその一端を窺うことができる。

江戸時代には大型軍船の保有が禁止(大船建造の禁)されたところ、代わりに各大名たちは、中型軍船である関船を華麗に飾り立てて海御座船として使用した。徳川将軍家も、御座船として小76挺立の関船「天地丸」を江戸時代を通じて運用した。 御座船は参勤交代に用いられたほか、琉球使節の江戸上り朝鮮通信使の送迎に用いられた。送迎役となる九州・四国・瀬戸内海から伏見に至る諸大名のほか、徳川将軍家も大阪に4隻の御座船を常備していた[1]

川の瀬が浅く正規の御座船が通らない場合は、これに代わる船を御召替舟(または中御座船や小御座船)を使用した。

脚注

  1. ^ 森田玲『日本の祭と神賑』創元社 2015年、ISBN 9784422230351 pp.113-115.

参考文献

  • 石井謙治 『和船 II』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、1995年。
  • 同上(監修) 『日本の船を復元する―古代から近世まで』 学習研究社〈GAKKEN GRAPHIC BOOKS DELUXE〉、2002年。

関連項目