「岡本宗慶」の版間の差分

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[[宇都宮俊綱]]の頃には既に[[宇都宮氏]]の家臣であったとされ、[[宇都宮広綱|広綱]]の頃には筆頭家老にまでなっており、宇都宮家中で強い影響力を有した。宗慶は主に[[越後国]]の[[上杉謙信]]との外交を一任されており、謙信と親密な関係を築いていた。晩年は子の[[岡本高永|高永]]が謙信や[[小山秀綱]]との外交を行っていた。
[[宇都宮俊綱]]の頃には既に[[宇都宮氏]]の家臣であったとされ、[[宇都宮広綱|広綱]]の頃には筆頭家老にまでなっており、宇都宮家中で強い影響力を有した。宗慶は主に[[越後国]]の[[上杉謙信]]との外交を一任されており、謙信と親密な関係を築いていた。晩年は子の[[岡本高永|高永]]が謙信や[[小山秀綱]]との外交を行っていた。


他にも、かつて[[宇都宮忠綱]]の近臣の[[永山忠好]]や[[宇都宮興綱]]、[[宇都宮俊綱]]の頃の筆頭重臣である[[芳賀高孝]]、[[芳賀高経]]が行っていた栗島郷の支配も任されており、[[佐八氏]]1に宛てた書状が残っている。
他にも、かつて[[宇都宮忠綱]]の近臣の[[永山忠好]]や[[宇都宮興綱]]、[[宇都宮俊綱]]の頃の筆頭重臣である[[芳賀高孝]]、[[芳賀高経]]が行っていた栗島郷の支配も任されており、[[佐八氏]]に宛てた書状が残っている。


[[甲相同盟]]が結ばれたことによって危機感を抱き、宇都宮氏を親後北条派に転換させようとした宇都宮氏の重臣[[皆川俊宗]]にとって、親上杉派の筆頭である岡本宗慶が邪魔だったために、[[元亀]]3年([[1572年]])[[1月14日]]、俊宗が[[宇都宮城]]へ出仕した際に、その晩、宗慶は俊宗によって殺害された。その翌日には宇都宮城を占拠されてしまった([[皆川俊宗の乱]])。
[[甲相同盟]]が結ばれたことによって危機感を抱き、宇都宮氏を親後北条派に転換させようとした宇都宮氏の重臣[[皆川俊宗]]にとって、親上杉派の筆頭である岡本宗慶が邪魔だったために、[[元亀]]3年([[1572年]])[[1月14日]]、俊宗が[[宇都宮城]]へ出仕した際に、その晩、宗慶は俊宗によって殺害された。その翌日には宇都宮城を占拠されてしまった([[皆川俊宗の乱]])。

2020年9月10日 (木) 02:05時点における版

 
岡本 宗慶 / 岡本 高昌
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 元亀3年1月14日1572年1月28日
改名 高昌→可月斎宗慶
別名 可月斎宗慶(法名)
官位 美濃
主君 宇都宮尚綱宇都宮広綱
氏族 芳賀氏庶流岡本氏
高永
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岡本 宗慶(おかもと そうけい?) / 岡本 高昌(おかもと たかあき?、生年不詳 - 元亀3年1月14日1572年1月28日))は、戦国時代の武将。下野国戦国大名宇都宮氏の家臣。岡本氏は清党の棟梁芳賀氏の庶流である。宗慶は法名である。子に高永

宇都宮俊綱の頃には既に宇都宮氏の家臣であったとされ、広綱の頃には筆頭家老にまでなっており、宇都宮家中で強い影響力を有した。宗慶は主に越後国上杉謙信との外交を一任されており、謙信と親密な関係を築いていた。晩年は子の高永が謙信や小山秀綱との外交を行っていた。

他にも、かつて宇都宮忠綱の近臣の永山忠好宇都宮興綱宇都宮俊綱の頃の筆頭重臣である芳賀高孝芳賀高経が行っていた栗島郷の支配も任されており、佐八氏に宛てた書状が残っている。

甲相同盟が結ばれたことによって危機感を抱き、宇都宮氏を親後北条派に転換させようとした宇都宮氏の重臣皆川俊宗にとって、親上杉派の筆頭である岡本宗慶が邪魔だったために、元亀3年(1572年1月14日、俊宗が宇都宮城へ出仕した際に、その晩、宗慶は俊宗によって殺害された。その翌日には宇都宮城を占拠されてしまった(皆川俊宗の乱)。

参考文献

  • 江田郁夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-043-4