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「グラスノスチ」の版間の差分

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== 解説 ==
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[[1986年]][[4月]]に起こった[[チェルノブイリ原発事故]]では、書記長であるゴルバチョフの元になかなか情報が届かず、ソ連の[[セクショナリズム]]・[[秘密主義]]が、国の最高指導者の行政にまで影響を与えている現実を突きつけた。業を煮やしたゴルバチョフによって、体制の硬直化による種々の社会問題を解決するために、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。
[[1986年]][[4月]]に起こった[[チェルノブイリ原子力電所事故]]では、書記長であるゴルバチョフの元になかなか情報が届かず、ソ連の[[セクショナリズム]]・[[秘密主義]]が、国の最高指導者の行政にまで影響を与えている現実を突きつけた。業を煮やしたゴルバチョフによって、体制の硬直化による種々の社会問題を解決するために、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。


ペレストロイカ推進のためには、従来の[[社会主義]]的イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、それまで抑圧され続けていた改革派の知識人、あるいは学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。[[1986年]]末までには、一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判できるようになった。また、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]を批判してゴーリキー(現・[[ニジニ・ノヴゴロド]])に幽閉されていた科学者[[アンドレイ・サハロフ]]も釈放された。
ペレストロイカ推進のためには、従来の[[社会主義]]的イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、それまで抑圧され続けていた改革派の知識人、あるいは学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。[[1986年]]末までには、一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判できるようになった。また、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]を批判してゴーリキー(現・[[ニジニ・ノヴゴロド]])に幽閉されていた科学者[[アンドレイ・サハロフ]]も釈放された。
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このように、一連の改革はソ連邦の民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような[[ソビエト連邦共産党|共産党]]幹部による[[共産貴族]]と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的には[[ソ連崩壊|ソ連解体]]へと国家を進めていく結果となった。
このように、一連の改革はソ連邦の民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような[[ソビエト連邦共産党|共産党]]幹部による[[共産貴族]]と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的には[[ソ連崩壊|ソ連解体]]へと国家を進めていく結果となった。


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2020年8月22日 (土) 04:29時点における版

1988年に発行されたペレストロイカとグラスノスチを宣伝する切手。右側に「民主的なグラスノスチを加速しよう」とある。

グラスノスチロシア語: гласность、glasnost)は、ゴルバチョフ時代のソビエト連邦においてペレストロイカ(perestroika、改革)の重要な一環として展開された情報政策である。日本語では「情報公開」などと訳される。

解説

1986年4月に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故では、書記長であるゴルバチョフの元になかなか情報が届かず、ソ連のセクショナリズム秘密主義が、国の最高指導者の行政にまで影響を与えている現実を突きつけた。業を煮やしたゴルバチョフによって、体制の硬直化による種々の社会問題を解決するために、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。

ペレストロイカ推進のためには、従来の社会主義的イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、それまで抑圧され続けていた改革派の知識人、あるいは学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。1986年末までには、一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判できるようになった。また、ブレジネフ政権のアフガニスタン侵攻を批判してゴーリキー(現・ニジニ・ノヴゴロド)に幽閉されていた科学者アンドレイ・サハロフも釈放された。

1987年頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた映画が次々と公開された。党の統制下に置かれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においてもネップ(新経済政策)の再評価、1930年代の大飢饉の考察や、大粛清における犠牲者の名誉回復など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。

それまで西側にとって秘密のヴェールにつつまれていた軍事面の情報も徐々に公にされるようになり、1986年には、空軍の新鋭戦闘機MiG-29フィンランドのクオピオ・リッサラ基地を親善訪問した映像が世界に配信され、1988年にはイギリスのファーンボロー国際航空ショーに出展、さらに翌年にはSu-27Su-25Mi-28など最新鋭の軍用機がパリ航空ショーに出品披露されるなど、積極的な公開が進んだ。

このように、一連の改革はソ連邦の民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的にはソ連解体へと国家を進めていく結果となった。