「ルイジアナ買収」の版間の差分

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'''ルイジアナ買収'''(ルイジアナばいしゅう、{{en|Louisiana Purchase}})、または'''ルイジアナ売却'''(ルイジアナばいきゃく、{{fr|Vente de la Louisiane}})は、[[1803年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[フランス]]から210万[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]を超える領地を1500万ドル(現金1125万ドル + 当時の借入金375万ドルを帳消し)で買収した出来事である。
'''ルイジアナ買収'''(ルイジアナばいしゅう、{{en|Louisiana Purchase}})、または'''ルイジアナ売却'''(ルイジアナばいきゃく、{{fr|Vente de la Louisiane}})は、[[1803年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[フランス]]から210万[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]を超える領地を1500万ドル(現金1125万ドル + 当時の借入金375万ドルを帳消し)で買収した出来事である。


資金は[[オランダ]]の[[ホープ商会]]と[[イギリス]]の[[ベアリング家]]がファイナンスしている。つまり[[米国債]]で支払われたため、両家が割り引いて[[現金]]化した。両家とフランスの関係は[[ナポレオン戦争]]終結後も続き、[[1817年]]に両家は年利8.13%から9.52%でフランス国債を引受けている。
資金は[[オランダ]]の[[ホープ商会]]と[[イギリス]]の[[ベアリング家]]が[[ファイナンス]]している。つまり[[米国債]]で支払われたため、両家が割り引いて[[現金]]化した。両家とフランスの関係は[[ナポレオン戦争]]終結後も続き、[[1817年]]に両家は年利8.13%から9.52%でフランス[[国債]]を引受けている。


== 概要 ==
== 概要 ==

2020年8月20日 (木) 10:15時点における版

ルイジアナ買収の対象地域(緑) 地図と州区分は21世紀のもの

ルイジアナ買収(ルイジアナばいしゅう、Louisiana Purchase)、またはルイジアナ売却(ルイジアナばいきゃく、Vente de la Louisiane)は、1803年アメリカフランスから210万km2を超える領地を1500万ドル(現金1125万ドル + 当時の借入金375万ドルを帳消し)で買収した出来事である。

資金はオランダホープ商会イギリスベアリング家ファイナンスしている。つまり米国債で支払われたため、両家が割り引いて現金化した。両家とフランスの関係はナポレオン戦争終結後も続き、1817年に両家は年利8.13%から9.52%でフランス国債を引き受けている。

概要

当時の「仏領ルイジアナ」は主にミシシッピ川流域の広大な領地で、現在のアイオワアーカンソーオクラホマカンザスコロラドサウスダコタテキサスニューメキシコネブラスカノースダコタミズーリミネソタモンタナルイジアナワイオミングの15州にまたがる。

アメリカ第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、当初は仏領ニューオーリンズを領有したいと考えていた。ニューオーリンズはミシシッピ川の河口に位置し、物流の拠点として重要な街となっていた。

ジェファーソンは1802年に特使をパリに派遣し、ニューオーリンズ買収を提案した。当時フランスはナポレオンの執政下にあり、イギリスとは敵対していた。イギリスがカナダからルイジアナに侵攻した場合、これを防衛することはそもそも無理と結論したナポレオンは、むしろこれを売却してこれで得た利益を大陸での戦費にあて、さらにアメリカのヨーロッパ政策をフランス寄りにすることができることも期待して、全ルイジアナを破格の1500万ドルでアメリカに売却することを決定した。

これをうけて1803年4月30日、売却に関する条約が交わされた。アメリカ合衆国の領土はこれにより、この当時で2倍になった(現在でも全領土の23%に相当する)。

ルイジアナ買収200周年

2003年、ルイジアナの買収から200周年を迎え、これに合わせて様々な記念行事が行われた。しかし、ジャック・シラク仏大統領ジョージ・W・ブッシュ米大統領イラク戦争をめぐって対立していたため、両者は参加しなかった。

関連項目

外部リンク