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2020年3月30日 (月) 05:41時点における版
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 大治元年(1126年) |
死没 | 長寛2年(1164年) |
別名 | 通称:太郎 |
氏族 | 杉本氏 |
父母 | 父:三浦義明 母:不明 |
兄弟 |
義宗、三浦義澄、大多和義久 佐原義連、多々良義春、長井義季、 杜重行、源義朝側室、畠山重能室 金田頼次室、長江義景室、大河戸広行室 |
妻 | 大庭景継娘[1] |
子 |
和田義盛、義茂、義胤、義長、宗実、 小笠原遠光室 |
杉本 義宗(すぎもと よしむね)は、平安時代後期の武将。三浦義明の嫡男。杉本氏、和田氏の祖。子に鎌倉幕府の侍所別当となった和田義盛。
生涯
時期は不明だが、老齢の父・義明に代わって家督を継いだ。
衣笠城からより鎌倉に近い場所に拠点を作ることを考え、三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて杉本城を築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦路・三浦路を抑える要衝であった。
義宗は所領をめぐる争いから長寛元年(1163年)秋、安房国に水軍を率いて出陣して長狭常伴と合戦に及び、待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなった。
その後
義宗の長子、和田義盛は三浦郡和田郷に拠点を構え、杉本城には義宗の次男、義茂が入城した。
鎌倉幕府の成立後は、三浦党は嫡男の義宗系である和田氏と、家督を継承した二男の義澄系で分裂し、建保元年(1213年)の和田合戦によって、和田氏は義澄の子・三浦義村に滅ぼされた。