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'''[[ビザンティン建築]]'''(ビザンティンけんちく、{{lang-en|Byzantine Architecture}})は、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った[[建築]]様式である。[[4世紀]]頃には帝国の特恵宗教である[[キリスト教]]の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても[[正教会]]の[[聖堂]]、あるいは[[イスラム教]]の[[モスク]]として利用されている。日本では、'''ビザンツ建築'''と呼ばれる場合もある。
[[ファイル:Virgin_Mary_and_Jesus_(old_Persian_miniature).jpg|右|サムネイル|200px|マルヤムとイーサー。[[ペルシア]]、[[シーア派]]の古い[[ミニアチュール]]]]
'''[[イスラームにおけるイーサー]]'''(عيسى)は、[[ナザレのイエス]]の[[イスラーム]]における呼称である。[[キリスト教]]において[[キリスト]](救世主)として信仰の対象とされるイエスは、イスラームでは[[イーサー]]と呼ばれ、[[イスラエル]]の子ら(banī isrā'īl)を新しい[[啓示]][[インジール]]のもと導くために送られた[[預言者]]と位置付けられる。


[[ローマ建築]]円熟期の優れた[[工学]]・[[技術]]を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。
{{仮リンク|イスラームにおけるマルヤム|ar|مريم بنت عمران|en|Mary in Islam|label=マルヤム}}を母として生まれた。イーサーを探索する動きから逃れられるよう、イーサーは奇跡を起こす力を、すべて神の許しのもと得た。イスラームの教典によれば、イーサーは殺されることも[[磔]]にされることもなく、生き続けて[[天国 (イスラーム)|天国]]に上がったとされる。イスラームの伝承では、イーサーは[[最後の審判]]が近づけば地上に戻り、司法を復活させて偽の[[メシア]]を打ち負かすと考えられている。イスラームのすべての預言者同様、イーサーはムスリムであり、人々に向かって、神の意志に服従してまっすぐに進むよう説教したと考えられている。

キリスト教の布教活動とともに、[[ブルガリア]]や[[セルビア]]などの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならず[[ロシア]]あるいは[[アルメニア]]や[[ジョージア (国)|ジョージア]]など[[西アジア]]にも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期の[[イスラーム建築]]にも影響を与えている。
[[ファイル:AyaSofyaelev.jpg|thumb|200px|[[イスタンブール]]の[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]<br />周囲の4本の[[ミナレット]]は[[オスマン帝国]]時代に[[モスク]]に転用された際に付け加えられたもの。]]

2019年5月29日 (水) 15:52時点における版

ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、英語: Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会聖堂、あるいはイスラム教モスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。

ローマ建築円熟期の優れた工学技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。

キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアジョージアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。

イスタンブールハギア・ソフィア大聖堂
周囲の4本のミナレットオスマン帝国時代にモスクに転用された際に付け加えられたもの。