「柳元景」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2016年12月25日 (日) 14:53 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2016年12月25日 (日) 14:53 (UTC)}}
'''柳元景'''(りゅう げんけい、[[義熙]]2年([[406年]]) - [[景和]]元年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[465年]][[9月18日]])は、[[中国]]の[[宋 (南朝)|南朝宋]]の武将。[[本貫]]は[[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]。柳憑の子。柳慶宗・柳嗣宗・柳紹宗・柳茂宗(柳共宗)・柳孝宗・柳文宗・柳仲宗・柳成宗・柳宗・柳承宗の父。柳纂(柳嗣宗の子)の祖父
'''柳元景'''(りゅう げんけい、[[義熙]]2年([[406年]]) - [[景和]]元年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[465年]][[9月18日]])は、[[中国]]の[[宋 (南朝)|南朝宋]]の武将。[[本貫]]は[[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]。柳憑の子。子は柳慶宗・柳嗣宗・柳紹宗・柳茂宗(柳共宗)・柳孝宗・柳文宗・柳仲宗・柳成宗・柳宗・柳承宗(遺腹子)孫は柳纂(柳嗣宗の遺腹子)。


==生涯==
==生涯==
[[450年]]、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。[[弘農郡]]を攻め落とし、続けて陝城を攻めたが[[北魏]]の援軍に阻まれた。[[薛安都]]の奮戦によって北魏の軍勢を退けたが、[[太武帝]]の南下を聞いて[[襄陽郡 (中国)|襄陽郡]]まで退いた。後に襄陽郡太守に任命された。また、[[劉徳願]]とも親交があった。
[[450年]]、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。[[弘農郡]]を攻め落とし、続けて陝城を攻めたが[[北魏]]の援軍に阻まれた。[[薛安都]]の奮戦によって北魏の軍勢を退けたが、[[太武帝]]の南下を聞いて[[襄陽郡 (中国)|襄陽郡]]まで退いた。後に襄陽郡太守に任命された。また、[[劉徳願]]とも親交があった。


[[465年]]、江夏王[[劉義恭]]と共に[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]の廃立を謀ったが、[[沈慶之]]の密告により、家族とともに殺害された。享年59。
[[465年]]、江夏王[[劉義恭]]と共に[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]の廃立を謀ったが、[[沈慶之]]の密告により、家族(柳承宗・柳纂を除く)とともに殺害された。享年59。


{{DEFAULTSORT:りゆう けんけい}}
{{DEFAULTSORT:りゆう けんけい}}

2019年4月17日 (水) 08:24時点における版

柳元景(りゅう げんけい、義熙2年(406年) - 景和元年8月13日465年9月18日)は、中国南朝宋の武将。本貫河東郡解県。柳憑の子。子は柳慶宗・柳嗣宗・柳紹宗・柳茂宗(柳共宗)・柳孝宗・柳文宗・柳仲宗・柳成宗・柳季宗・柳承宗(遺腹子)。孫は柳纂(柳嗣宗の遺腹子)。

生涯

450年文帝が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。弘農郡を攻め落とし、続けて陝城を攻めたが北魏の援軍に阻まれた。薛安都の奮戦によって北魏の軍勢を退けたが、太武帝の南下を聞いて襄陽郡まで退いた。後に襄陽郡太守に任命された。また、劉徳願とも親交があった。

465年、江夏王劉義恭と共に前廃帝の廃立を謀ったが、沈慶之の密告により、家族(柳承宗・柳纂を除く)とともに殺害された。享年59。