「ゲオルク・フォン・ヘルトリング」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
カテゴリーを追加 |
||
27行目: | 27行目: | ||
{{DEFAULTSORT:へるとりんく けおるく}} |
{{DEFAULTSORT:へるとりんく けおるく}} |
||
[[Category:ドイツ帝国の首相]] |
[[Category:ドイツ帝国の首相]] |
||
[[Category:プロイセン王国の首相]] |
|||
[[Category:ドイツの伯爵]] |
[[Category:ドイツの伯爵]] |
||
[[Category:バイエルンの政治家]] |
[[Category:バイエルンの政治家]] |
2019年3月3日 (日) 16:07時点における版
ゲオルク・フォン・ヘルトリング Georg von Hertling | |
ドイツ帝国
第7代 帝国宰相 | |
任期 | 1917年10月31日 – 1918年9月30日 |
---|---|
出生 | 1843年8月31日 ダルムシュタット |
死去 | 1919年1月4日(75歳没) バイエルン、ルーフォルデインク |
政党 | 中央党 |
ゲオルク・フリードリヒ・フォン・ヘルトリング伯爵(Georg von Hertling, 1843年8月31日 – 1919年1月4日)は、ドイツの政治家。バイエルン王国首相を経て、1917年から1918年までドイツ帝国の第7代帝国宰相を務めた。もとは男爵で1914年に伯爵に陞爵した。
バイエルン議会の最大政党である中央党の領袖として、バイエルン摂政ルイトポルトによって1912年バイエルン首相に指名された。第一次世界大戦が勃発すると、帝国宰相であったテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークを支持するが、1917年中央党の指導者であるマティアス・エルツベルガーは、戦争に敗北している状態を知り、ベートマン=ホルヴェークを非難した。戦争継続を目論むエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長はベートマンの弱腰ぶりからベートマン退陣に同調し、1917年ベートマンは帝国宰相を辞任した。ゲオルク・ミヒャエリスを間において、1917年10月31日ヘルトリングは、帝国宰相・プロイセン首相に就任した。時すでに75歳の老齢であり、その保守主義も相まって、総司令部を統御することは適わず、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とルーデンドルフが決定した政策に影響を与えることはできなかった。
カトリック教徒としては、哲学教授であり、カトリック教徒の友愛組織であるアスカニア=ブルグンディアカトリック学生団を結成している。女優のギラ・フォン・ヴァイターハウンゼンは、ヘルトリングの曾孫に当たる。