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2006年8月16日 (水) 13:59時点における版

重仁親王(しげひとしんのう 長久元年(1140年)-応保2年(1162年))は平安時代後期の皇族崇徳天皇の第1皇子。

親王の誕生前年、父である崇徳天皇は院政を行う鳥羽上皇の強い意向によって異母弟・体仁親王(後の近衛天皇)を皇太弟に立てることを強要される。そこで親王が生まれるとすぐに皇太弟の生母である藤原得子美福門院)の養子に迎えられた。翌1141年、崇徳天皇に代わって近衛天皇が即位した年に親王宣下を受ける。1150年元服する。美福門院は重仁親王を我が子の様にかわいがっており、一説には次の皇太子に最も近い地位にいたとされている。

ところが、1155年に近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、宮廷には崇徳上皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに激怒した鳥羽法皇は重仁親王ではなく、上皇の弟である雅仁親王を即位させてしまう(後白河天皇)。崇徳上皇がこれに強い恨みを持ったことが保元の乱の原因となる。

乱後、崇徳上皇は讃岐国に流罪になり、重仁親王は仁和寺に入り出家した。寛暁大僧正のもとで仏道に励んだが、1162年に足の病により死去した。