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== 略歴 ==
== 略歴 ==
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これまで行なった演奏会は、いつしか1000回以上に達し、[[ニューヨーク]]の[[カーネギー・ホール]]や[[ウィーン]]の楽友協会ホールにおける演奏などでは、しばしば批評家の熱狂的な賛辞を勝ち得てきた。レパートリーは非常に幅広く、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]、[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]を得意とし、また、[[18世紀]]以前の作曲家、たとえば[[ウィリアム・バード]]や[[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー|フローベルガー]]、[[フランソワ・クープラン]]にも意欲的に取り組んでいる。慎重に活動を続ける芸術家ではあるが、近年はフランスのレーベルを通じて発表される録音の量も増えており、[[2002年]]の[[パリ]]・リサイタルの模様は、映像監督の[[ブルーノ・モンサンジョン]]によって[[DVD]]に収録され、発表された。
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* [http://jp.youtube.com/watch?v=2inaFzEHnTM Sokolov plays Scriabin, Vers la Flamme (2007 version) ]
* [http://jp.youtube.com/watch?v=2inaFzEHnTM Sokolov plays Scriabin, Vers la Flamme (2007 version) ]
* [http://jp.youtube.com/watch?v=kDkScY1CgUo Grigory Sokolov Stravinsky Petrouchka edited a bit]
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== 脚注 ==
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2018年11月5日 (月) 11:43時点における版

グリゴリー・リプマノヴィチ・ソコロフ
2015年
基本情報
生誕 (1950-04-18) 1950年4月18日 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 レニングラード
出身地 ロシアの旗 ロシア
学歴 レニングラード音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

 

グリゴリー・リプマノヴィチ・ソコロフ((ロシア語: Григорий Липманович Соколов)/Grigory Lipmanovich Sokolov, 1950年4月18日 レニングラード – )はロシアピアニスト

略歴

5歳でピアノの学習を始める。レニングラード音楽院において、7歳のときレアー・ゼリフマンに、その後はモイセイ・ハルフィンに師事した。12歳で最初の大規模なリサイタルモスクワで開く。1966年、16歳で第3回チャイコフスキー国際コンクールで優勝し、審査委員長のエミール・ギレリス以下、審査員の全員一致で金メダルの授与が決定されたことによって国際的な注目を浴びた。1970年代1980年代ソ連国内では印象深い活躍を見せたのに対して、国外で演奏旅行を行なうことが滅多に許されなかったために、西側では名ばかりが知られた存在だった。ペレストロイカ以降の1980年代後半に、国際的な演奏活動が活発化してから、次第に現在の名声が打ち立てられた。

これまで行なった演奏会は、いつしか1000回以上に達し、ニューヨークカーネギー・ホールウィーンの楽友協会ホールにおける演奏などでは、しばしば批評家の熱狂的な賛辞を勝ち得てきた。レパートリーは非常に幅広く、バッハモーツァルトベートーヴェンシューマンショパンブラームススクリャービンラフマニノフプロコフィエフを得意とし、また、18世紀以前の作曲家、たとえばウィリアム・バードフローベルガーフランソワ・クープランにも意欲的に取り組んでいる。慎重に活動を続ける芸術家ではあるが、近年はフランスのレーベルを通じて発表される録音の量も増えており、2002年パリ・リサイタルの模様は、映像監督のブルーノ・モンサンジョンによってDVDに収録され、発表された。

演奏はダイナミックなもので、左手で深いバスを響かせながら、大きな緩急を伴いながら情緒深く、しかも難曲でもミスタッチが非常に少ないのも特徴である。

外部リンク

音源

脚注