エミール・ギレリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
エミール グリゴリエヴィチ ギレリス
E.Gilels.jpg
基本情報
生誕 (1916-10-19) 1916年10月19日
出身地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦ウクライナオデッサ]
死没 (1985-10-14) 1985年10月14日(68歳没)
学歴 オデッサ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

エミール・グリゴリエヴィチ・ギレリスロシア語: Э́миль Григо́рьевич Ги́лельс、ラテン文字転写例: Emil Grigoryevich Gilels、1916年10月19日ユリウス暦では10月6日) - 1985年10月14日)は、ソビエト連邦ロシアピアニスト。苗字はHilelsとラテン文字転写される場合がある。20世紀を代表する世界的奏者の一人である

略歴[編集]

ウクライナオデッサユダヤ人の家庭に生まれる。両親は共に音楽家。6歳でピアノを始める。1929年に13歳でデビュー。1930年にオデッサ音楽院へ入学、ベルタ・レイングバルドから薫陶を受ける。1933年、17歳で全ソ連ピアノコンクール優勝。1935年にオデッサ音楽院を卒業し、モスクワに転居。以後1937年までゲンリフ・ネイガウスに師事。

コンクール出場に関しては、1936年にウィーンで行われた国際コンクールに出場して第2位(その際の第1位はヤーコフ・フリエールであった)。1938年、22歳でブリュッセルで行われたイザイ国際コンクール優勝(その際の第3位はヤーコフ・フリエール)。この大会にはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリも参加していたが、審査委員のアルトゥール・ルービンシュタインによれば「技術的には完璧であったが、不満足な演奏をして」第7位に終わった。

1947年からヨーロッパで演奏旅行を始める。西側で自由に活動することをソ連政府から許された最初の芸術家だった。ロシアの自宅では、アップライトピアノで練習していたといわれている。1952年以降はモスクワ音楽院で後進の育成に当たった。1955年にはフィラデルフィアチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番を演奏し、アメリカ・デビューを果たした。日本にも何度か来訪した。 1985年にモスクワで死去。演奏旅行に向かう前に病院で予防注射を受けている際、看護師が誤って異なる薬を入れてしまいその結果心臓麻痺を起こしたとリヒテルはブルーノ・モンサンジョン著の「リヒテル」で語っている。

受賞歴[編集]

ソ連政府からは、1946年にはスターリン賞、1961年と1966年にはレーニン勲章、1962年にはレーニン賞をそれぞれ受賞している。

レパートリーなど[編集]

ギレリスは、鋼鉄のタッチと通称される完璧なテクニックに加えて甘さを控えた格調高い演奏設計で非常に評価が高い。バロック時代のスカルラッティバッハ、ロマン派のシューマンブラームス、さらにはドビュッシーバルトークプロコフィエフといった20世紀音楽に至るまで幅広いレパートリーを持っていた。プロコフィエフからはピアノソナタ第8番を献呈され、1944年12月29日にはこの作品を初演してもいる。とりわけベートーヴェンの解釈と演奏においては、骨太で男性的な演奏で「ミスター・ベートーヴェン」と呼ばれるほどであった。

晩年には骨太な表現が鳴りを潜め、力を抑えた枯淡の境地と言える表現に変わっていった。ドイツ・グラモフォンレーベルにベートーヴェンのピアノソナタの録音が進行中だった。その死によって、全集は完成されずに終わったが、ギレリスの晩年の境地を示す録音である。また、ベートーヴェンのピアノ協奏曲についてはクルト・マズアおよびジョージ・セルの指揮との共演で全集が発売されており、特にセルと組んだ全集はオーケストラの好伴奏もあって素晴らしい出来であり、録音の悪さを除けば同曲の代表盤と言って差し支えない。

また、ドイツ・グラモフォンに録音されたブラームスのピアノ協奏曲第1、2番(オイゲン・ヨッフム/ベルリン・フィル)も、やはり同曲の代表的名盤と呼ばれている。

家族[編集]

  • 妹:エリザヴェータ・ギレリス - レオニード・コーガンの妻。
  • 娘:エレーナ・ギレリス - ピアニスト。

脚注[編集]