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{{Otheruses|中世モラヴィア王国の君主|その他|ロスチスラフ}} |
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{{基礎情報 君主 |
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[[画像:Prince Rastislav.JPG|thumb|200px|right|ラスチスラフ]] |
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| 人名 = ラスチスラフ |
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| 各国語表記 = |
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| 君主号 = 第2代モラヴィア王 |
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| 画像 = Prince Rastislav.JPG |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = |
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| 在位 = [[846年]] - [[870年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[870年]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = |
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| 配偶者2 = |
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| 子女 = |
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| 王家 = |
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| 王朝 = モイミール朝 |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = |
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| 母親 = |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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'''ラスチスラフ'''(Rastislav, ? - [[870年]])は、[[モラヴィア王国]]の第2代[[モラヴィア君主一覧|君主]]。'''ロスティスラフ'''とも表記する。 |
'''ラスチスラフ'''(Rastislav, ? - [[870年]])は、[[モラヴィア王国]]の第2代[[モラヴィア君主一覧|君主]]。'''ロスティスラフ'''とも表記する。 |
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== 生涯 == |
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初代[[モイミール]]の死後、[[846年]]に王位についた。モイミールが[[カトリック教会|カトリック]]を受容する姿勢を見せたのに対して、ラスチスラフは[[東フランク王国]]との対抗上、[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのが[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]・[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]の兄弟であり、王国内における[[正教会|正教]]の浸透を図った。この際に布教の必要性から[[グラゴル文字]]が作成された。 |
初代[[モイミール1世]]の死後、[[846年]]に王位についた。モイミール1世が[[カトリック教会|カトリック]]を受容する姿勢を見せたのに対して、ラスチスラフは[[東フランク王国]]との対抗上、[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのが[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]・[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]の兄弟であり、王国内における[[正教会|正教]]の浸透を図った。この際に布教の必要性から[[グラゴル文字]]が作成された。 |
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東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]]によって失脚に追い込まれた。 |
東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]]によって失脚に追い込まれた。 |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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*南塚信吾編 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 [[山川出版社]]、1999年 |
*南塚信吾編 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 [[山川出版社]]、1999年 |
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{{先代次代|モラヴィア王|[[846年]] - [[870年]]|[[モイミール1世]]|[[スヴァトプルク1世]]}} |
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{{History-stub}} |
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2018年7月29日 (日) 13:42時点における版
ラスチスラフ | |
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第2代モラヴィア王 | |
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在位 | 846年 - 870年 |
死去 |
870年 |
王朝 | モイミール朝 |
ラスチスラフ(Rastislav, ? - 870年)は、モラヴィア王国の第2代君主。ロスティスラフとも表記する。
生涯
初代モイミール1世の死後、846年に王位についた。モイミール1世がカトリックを受容する姿勢を見せたのに対して、ラスチスラフは東フランク王国との対抗上、ブルガリア、ビザンツ帝国などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのがキュリロス・メトディオスの兄弟であり、王国内における正教の浸透を図った。この際に布教の必要性からグラゴル文字が作成された。
東フランク王国と結んだ甥のスヴァトプルクによって失脚に追い込まれた。
正教会において聖人[1](1994年、チェコ・スロバキア正教会により列聖[2])。
脚注
参考文献
- 南塚信吾編 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社、1999年
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