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== 経歴 ==
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[[明治]]19年([[1886年]])、[[北海道]]に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年([[1911年]])に[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業する。卒業後、[[九州帝国大学]]の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任する。地質学者である一方、「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても名高く、{{独自研究範囲|date=2014年4月|今にも通ずる多くの提言を残してる}}。[[昭和]]6年([[1931年]])に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。また、[[榎本隆一郎]]海軍中将など多くの逸材を育てた。右翼との交流もあり、海軍中尉[[藤井斉]]の紹介により、のちに[[井上日召]]の手先として[[血盟団事件]]を引き起こす[[四元義隆]]に面会している。
[[明治]]19年([[1886年]])、[[北海道]]に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年([[1911年]])に[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業する。卒業後、[[九州帝国大学]]の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任する。地質学者である一方、「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても名高い。[[昭和]]6年([[1931年]])に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。また、[[榎本隆一郎]]海軍中将など多くの逸材を育てた。右翼との交流もあり、海軍中尉[[藤井斉]]の紹介により、のちに[[井上日召]]の手先として[[血盟団事件]]を引き起こす[[四元義隆]]に面会している。


== 著書 ==
== 著書 ==

2017年2月19日 (日) 17:05時点における版

河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本大正、昭和期を代表する地質学者教育者哲学者宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士

経歴

明治19年(1886年)、北海道に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年(1911年)に東京帝国大学を卒業する。卒業後、九州帝国大学の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任する。地質学者である一方、「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても名高い。昭和6年(1931年)に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。また、榎本隆一郎海軍中将など多くの逸材を育てた。右翼との交流もあり、海軍中尉藤井斉の紹介により、のちに井上日召の手先として血盟団事件を引き起こす四元義隆に面会している。

著書

  • 河村幹雄 『国防の将来』 福岡県教育会、大正13年(1924年)。
  • 河村幹雄 『日米不戦論』 海軍研究社、昭和5年(1930年)。
  • 河村幹雄博士遺稿刊行会編 『河村幹雄博士遺稿』 河村幹雄博士遺稿刊行会、昭和8年(1933年)。
  • 河村幹雄 『新尊皇攘夷論 : 他一〇』 河村幹雄、昭和8年(1933年)。
  • 河村幹雄 『名も無き民のこゝろ : 河村幹雄博士遺稿』 河村英雄編、岩波書店、昭和9年(1934年)。
  • 河村幹雄 『国防の将来』 白水社、昭和18年(1943年)。
  • 『河村幹雄全集 第1』 惇信堂、昭和20年(1945年)。
  • 『河村幹雄博士遺稿抄 : 附河村先生の思い出』 斯道会、昭和37年(1962年)。
  • 河村幹雄 『名も無き民のこ丶ろ : 河村幹雄博士遺稿』 内外情勢調査会、昭和44年(1969年)。
  • 河村幹雄 『日米不戰論』 林田孝編、雅舎、平成17年(2005年)、ISBN 4-7646-5103-3

関連項目