「フランチェスコ4世・ゴンザーガ」の版間の差分

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'''フランチェスコ4世・ゴンザーガ'''('''Francesco IV Gonzaga''', [[1586年]][[5月7日]] [[マントヴァ]] - [[1612年]][[12月22日]] マントヴァ)は、[[イタリア]]の[[マントヴァの領主一覧|マントヴァ公]]および[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート公]](在位1612年)。
'''フランチェスコ4世・ゴンザーガ'''('''Francesco IV Gonzaga''', [[1586年]][[5月7日]] [[マントヴァ]] - [[1612年]][[12月22日]] マントヴァ)は、[[イタリア]]の[[マントヴァの領主一覧|マントヴァ公]]および[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート公]](在位1612年)。


マントヴァ公[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ|ヴィンチェンツォ1世]]とその2番目の妻でトスカーナ大公[[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ1世]]の娘である[[エレオノーラ・デ・メディチ]]の間の第1子、長男として生まれた。1612年2月に死去した父の後を継いだが、10カに26歳の若さで死去した。存命の男子が無かったため、弟の枢機卿[[フェルディナンド1世・ゴンザーガ|フェルディナンド]]が還俗して家督を継いだ。
マントヴァ公[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ|ヴィンチェンツォ1世]]とその2番目の妻でトスカーナ大公[[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ1世]]の娘である[[エレオノーラ・デ・メディチ]]の間の第1子、長男として生まれた。1612年2月に死去した父の後を継いだが、同年12月に26歳で死去した。存命の男子が無かったため、弟の枢機卿[[フェルディナンド1世・ゴンザーガ|フェルディナンド]]が還俗して家督を継いだ。


1608年2月19日に[[トリノ]]において、サヴォイア公[[カルロ・エマヌエーレ1世]]の娘[[マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃)|マルゲリータ]]と結婚し、間に3人の子女をもうけた。
1608年2月19日に[[トリノ]]において、サヴォイア公[[カルロ・エマヌエーレ1世]]の娘[[マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃)|マルゲリータ]]と結婚し、間に3人の子女をもうけた。

2016年12月10日 (土) 11:40時点における版

マントヴァ公フランチェスコ4世

フランチェスコ4世・ゴンザーガFrancesco IV Gonzaga, 1586年5月7日 マントヴァ - 1612年12月22日 マントヴァ)は、イタリアマントヴァ公およびモンフェッラート公(在位1612年)。

マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世とその2番目の妻でトスカーナ大公フランチェスコ1世の娘であるエレオノーラ・デ・メディチの間の第1子、長男として生まれた。1612年2月に死去した父の後を継いだが、同年12月に26歳で死去した。存命の男子が無かったため、弟の枢機卿フェルディナンドが還俗して家督を継いだ。

1608年2月19日にトリノにおいて、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の娘マルゲリータと結婚し、間に3人の子女をもうけた。

  • マリーア(1609年 - 1660年) - 1627年、マイエンヌ公シャルルと結婚
  • ルイジ(1611年 - 1612年)
  • エレオノーラ(1612年)

外部リンク


先代
ヴィンチェンツォ1世
マントヴァ公
モンフェッラート公
(モンフェッラート公としてはフランチェスコ2世
1612年
次代
フェルディナンド1世