「嵐璃寛 (3代目)」の版間の差分

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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 第一冊33頁以降 ※[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948795 近代デジタルライブラリー]に本文あり。
*俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 第一冊33頁以降 ※[{{NDLDC|948795}} 近代デジタルライブラリー]に本文あり。
*野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
*野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年



2015年8月18日 (火) 16:24時点における版

三代目 嵐璃寛(さんだいめ あらし りかん、文化9年〈1812年〉 - 文久3年4月21日1863年6月7日〉)とは、江戸時代後期の大坂歌舞伎役者俳名は巌獅・橘蝶、屋号葉村屋

来歴

旅役者の生島岩五郎の子として生まれる。当初は父岩五郎と共に旅芝居に出ていたが、のちに二代目尾上多見蔵門下となって尾上和三郎と名乗り、文政10年(1827年)春に京の宮地芝居に若女形として出る。天保元年(1830年)には二代目嵐璃寛門人となり、三代目嵐徳三郎を襲名。以後女形として二代目璃寛の相手役を勤め、美しい女形という評判を取った。天保5年(1834年)11月に嵐橘蝶と名乗るが、同8年6月に師匠の璃寛が死去したのをうけ、再び徳三郎を名乗る。天保10年(1839年)には立役も手がけるようになり、天保14年(1843年)11月、大坂大西芝居で三代目嵐璃寛を襲名した。

当り役は『小野道風青柳硯』の小野道風、『双蝶々曲輪日記』の濡髪長五郎、『妹背山婦女庭訓』のお三輪など。上方や江戸の舞台で活躍し、口跡がよく若女形、立役を得意としたが、女形の役のほうが評判はよかったという。実子に四代目嵐璃寛がいる。映画『鞍馬天狗』で名を馳せた嵐寛寿郎は子孫に当たる[1]

脚注

  1. ^ 寛寿郎の祖母が三代目璃寛の孫娘であった。竹中労著『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(『ちくま文庫』、2001年)より。

参考文献

  • 俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 第一冊33頁以降 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。
  • 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年