「臨済義玄」の版間の差分

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'''臨済義玄'''(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-[[867年]])は[[中国]][[唐]]の[[禅僧]]で、[[臨済宗]]の開祖。<!--正しい表記は臨濟義玄だが、[[国語国字問題|漢字制限]]([[当用漢字]]、[[常用漢字]]、いわゆる[[教育漢字]])により現表記となる。--><!--戦後の文字改革で字体が変わった字はこのページの固有名詞だけでも黄、運、真、祖、道、徳とあり、済のみ取り上げる理由に乏しい-->
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当初、経論を学ぶも満ち足りず、[[禅宗]]へ転向して[[黄檗希運]]に師事し、いわゆる'''[[黄檗希運#黄蘗三打|黄蘗三打]]'''の機縁で大悟した。
当初、経論を学ぶも満ち足りず、[[禅宗]]へ転向して[[黄檗希運]]に師事し、いわゆる'''[[黄檗希運#黄蘗三打|黄蘗三打]]'''の機縁で大悟した。


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その後[[河北省]]の有力軍閥である成徳府[[節度使]]'''王紹懿'''([[:zh:王紹懿|中文]]、[[:en:Wang Shaoyi|English]]、禅録では王常侍)の帰依を受け、[[正定県|真定府]]の'''[[臨済寺 (河北省)|臨済院]]'''に住み、興化存奬を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に[[臨済宗]]と呼ばれるようになった。


その宗風は[[馬祖道一]]に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「'''喝'''」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、[[徳山宣鑑|徳山]]の「'''棒'''」とならび称され、その激しさから「'''臨済将軍'''」とも喩えられた。
その宗風は[[馬祖道一]]に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「'''喝'''」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、[[徳山宣鑑|徳山]]の「'''棒'''」とならび称され、その激しさから「'''臨済将軍'''」とも喩えられた。
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=== 訓注・訳注 ===
=== 訓注・訳注 ===
*『臨濟録』([[朝比奈宗源]]訳注、[[岩波文庫]]・旧版、初版[[1935年]]、新装版 タチバナ教養文庫・たちばな出版 [[2005年]]。禅宗の宗学的な解釈
*『臨濟録』([[朝比奈宗源]]訳注、[[岩波文庫]]・旧版、初版[[1935年]]、新装版 タチバナ教養文庫・たちばな出版 [[2005年]])ISBN 978-4813312185。禅宗の宗学的な解釈
*『臨濟録』([[入矢義高]]訳注、岩波文庫、[[1989年]] のち同ワイド版。近年の[[訓詁|中国語学]]的な研究の成果
*『臨濟録』([[入矢義高]]訳注、岩波文庫、[[1989年]] のち同ワイド版)ISBN 978-4003331019。近年の[[訓詁|中国語学]]的な研究の成果
*『禅語録  続世界の名著18』([[柳田聖山]]訳注、[[論社]]、[[1978年]]、改訂新版[[中公クラシックス]]<br> 『古尊宿語録』版より古い時期に成立した『四家語録』収録版の現代語訳
*『臨済録』<禅語録  続世界の名著18> [[柳田聖山]]訳注、中公バックス [[1978年]] ISBN 978-4124006285、改訂新版[[中公クラシックス]] [[2004年]] ISBN 978-4-12-160063-9<br> 『古尊宿語録』版より古い時期に成立した『四家語録』収録版の現代語訳。 


== 伝記 ==
== 伝記 ==

2015年4月15日 (水) 15:24時点における版

臨済義玄
?-867年
中国河北省正定県南城門内の臨濟義玄像
諡号 慧照禅師
尊称 臨済将軍
生地 曹州南華県(山東省菏沢市
宗派 臨済宗
寺院 真定府臨済院
黄檗希運
弟子 興化存奬
著作 『臨濟慧照禅師語録』(語録)
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臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)は中国禅僧で、臨済宗の開祖。 曹州南華県(山東省菏沢市)出身で俗姓は邢氏。

生涯

当初、経論を学ぶも満ち足りず、禅宗へ転向して黄檗希運に師事し、いわゆる黄蘗三打の機縁で大悟した。

その後河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿中文English、禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府臨済院に住み、興化存奬を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。

その宗風は馬祖道一に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。

語録

その語録である『臨済録』(臨濟慧照禅師語録)は「語録の王」として、中国・日本で再三にわたって開版された。本書には、簡潔な描写の中に臨済の直截的な確信に満ちた姿が驚くべき臨場感をともなって活写されている。

  • 『臨濟録』(『大正新脩大蔵経』巻47、『古尊宿語録』巻2、『續古尊宿語要』巻1)

訓注・訳注

伝記

関連項目


師:黄檗希運禅宗臨済宗弟子:興化存奬