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南北朝の争乱が常陸国に及ぶと、城主の伊佐氏<ref>[[伊佐太郎]]との説あり。</ref>が同族の[[伊達行朝]]<ref>観音寺境内に[[伊達行朝]]の供養塔([[筑西市]]指定文化財 伊達行朝廟)がある</ref>を迎え、[[南朝 (日本)|南朝方]]の[[北畠親房]]が拠る[[小田城]]<ref>[[北畠親房]]は、小田城籠城中に『[[神皇正統記]]』を執筆、[[関城]]で完成させている。</ref>に呼応。[[大宝城]]、[[関城]]など南朝方諸城とともに戦う。[[北朝 (日本)|北朝方]][[高師冬]]軍の攻撃に長く耐えたが、[[興国]]4年([[1343年]])に落城、以後廃城となる。 |
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2015年3月19日 (木) 00:12時点における版
伊佐城 (茨城県) | |
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築城主 | 伊佐氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 伊佐氏 |
廃城年 | 興国4年(1343年) |
遺構 | 曲輪跡、堀切跡 |
指定文化財 | 茨城県史跡 |
伊佐城(いさじょう)は、常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)にあった伊佐氏の日本の城。その城域は、東側に勤行川をのぞむ台地上の施無畏山延命院観音寺境内とその周辺で、「伊佐城跡」の名称で茨城県の史跡に指定されている。
築城
築城年不明。築城者は、藤原北家山陰流の伊達朝宗(常陸入道念西)との説あり。また、天慶3年(940年)、下野押領使の藤原秀郷(俵藤太)が平将門追討の際に上館(元館)・中館・下館の三館築いたという伝説[1]があり、この三館のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城との説もある。
概要
南北朝時代までの伊佐城については記録がなく、その詳細は不明。同城のあった常陸国伊佐郡は、平安時代末期から鎌倉時代まで、伊佐氏の領地であった。
南北朝の争乱が常陸国に及ぶと、城主の伊佐氏[2]が同族の伊達行朝[3]を迎え、南朝方の北畠親房が拠る小田城[4]に呼応。大宝城、関城など南朝方諸城とともに戦う。北朝方高師冬軍の攻撃に長く耐えたが、興国4年(1343年)に落城、以後廃城となる。
脚注
- ^ 三館のうち下館は、室町時代後期から江戸時代にかけ下館城として水谷正村など歴代城主が住した。上館は下館城の支城久下田城となった。
- ^ 伊佐太郎との説あり。
- ^ 観音寺境内に伊達行朝の供養塔(筑西市指定文化財 伊達行朝廟)がある
- ^ 北畠親房は、小田城籠城中に『神皇正統記』を執筆、関城で完成させている。