「アッピア街道」の版間の差分

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[[画像:Via Appia map.jpg|thumb|right|350px|アッピア街道の道筋]]
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'''アッピア街道'''(アッピアかいどう、Via Appia)は、現存する[[ローマ街道]]の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が[[1784年]]に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道(Via Appia Antica)とも呼ばれる。
'''アッピア街道'''({{lang-la|Via Appia}})は、現存する[[ローマ街道]]の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が[[1784年]]に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道(Via Appia Antica)とも呼ばれる。


==概要・歴史==
==概要・歴史==
[[File:Porta St. Sebastiano Rome 2011 1.jpg|thumb|right|180px|ローマ市街の境界[[サン・セバスティアーノ門]]]]
[[Image:RomaViaAppiaAntica03.JPG|thumb|left|180px|]]
[[Image:Via Appia Antica, Rome, 2004.jpg|thumb|left|180px|]]
[[File:Via Appia Antica photo-4.JPG|thumb|right|180px|第3マイル付近の[[チェチーラ・メテッラの墓]]]]
[[File:Celio - Porta san Sebastiano 1973.JPG|thumb|right|180px|始点サン・セバスティアーノ門]]
[[Image:Via Appia Antica, Rome, 2004.jpg|thumb|right|180px|ローマ付近街道]]
[[紀元前4世紀|紀元前312年]]に当時の[[ケンソル]]であった[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]の要請により[[元老院 (ローマ)|元老院]]の反対のなか、すでに存在した[[ローマ]]と[[アルバーノ]]丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈な[[ヴェスヴィオ山|ウェスウィウス山]]の[[火山岩]]が用いられた。
[[紀元前4世紀|紀元前312年]]に当時の[[ケンソル]]であった[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]の要請により[[元老院 (ローマ)|元老院]]の反対のなか、すでに存在した[[ローマ]]と[[アルバーノ]]丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈な[[ヴェスヴィオ山|ウェスウィウス山]]の[[火山岩]]が用いられた。


アッピア旧街道の当初のルートはローマ市内([[カラカラ浴場]]の南東角、ヌーマ・ポンピリオ広場付近)と[[アリッチャ]]、アッピウスのフォルム、[[テッラチーナ]]、[[フォンディ]]、[[フォルミア]]、[[ミントゥルノ]](ミントゥルナエ)、[[モンドラゴーネ]](シヌエッサ)、[[カプア|カープア]]った。
アッピア旧街道の当初のルートはローマの[[セルウィウス城壁]]出口の一つ{{仮リンク|カペーナ門|en|Porta Capena}}([[カラカラ浴場]]付近)を起点し、[[アリッチャ]]、アッピウスのフォルム、[[テッラチーナ]]、[[フォンディ]]、[[フォルミア]]、[[ミントゥルノ]](ミントゥルナエ)、[[モンドラゴーネ]](シヌエッサ)、[[カプア|カープア]]までであった。


[[紀元前2世紀|紀元前190年]]、街道は[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]](現ベネヴェント)や[[ヴェノーザ|ウェヌシア]](現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代には[[ターラント|タレントゥム]](現ターラント)と[[ブリンディジ|ブルンディシウム]](現ブリンディジ)まで延長された。
[[紀元前2世紀|紀元前190年]]、街道は[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]](現ベネヴェント)や[[ヴェノーザ|ウェヌシア]](現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代には[[ターラント|タレントゥム]](現ターラント)と[[ブリンディジ|ブルンディシウム]](現ブリンディジ)まで延長された。


アッピア・トライアーナつまりトライヤヌスアッピア街道はより線状に[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]]と[[カノーザ|カヌシウム]](現カノーザ[[バーリ|バリウム]](現バーリを繋
また途中の[[ベネヴェント|ベネウェントゥム]]からブルンディシウム(現ブリンディジを直線で結ぶ{{仮リンク|トライアナ街道|en|Via Traiana}}([[トラヤヌス]]のアッピア街道が109年に造られて


[[紀元前71年]]、約6000人の奴隷が[[スパルタクスの反乱|スパルタクス]]に率いられ[[第三次奴隷戦争|反乱を起こした]]。[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]によってこの奴隷反乱が鎮圧されると逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらは[[ポンペイ]]にまで達した。
[[紀元前71年]]、約6000人の奴隷が[[スパルタクスの反乱|スパルタクス]]に率いられ[[第三次奴隷戦争|反乱を起こした]]。[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]によってこの奴隷反乱が鎮圧されると逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらは[[ポンペイ]]にまで達した。
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街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている([[ヴェッレトリ]]近辺など)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教の[[カタコンベ]]を多数見ることができる。
街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている([[ヴェッレトリ]]近辺など)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教の[[カタコンベ]]を多数見ることができる。


ローマ布教に失敗し追われる身となった聖[[ペトロ]]が、アッピア街道の中途でイエスの幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine, quo vadis ?)」と尋ねたところとしても知られる。現在その場所には[[ドミネ・クォ・ヴァディス教会]]が建てられている。そして、ペトロは再度ローマへ赴き、逮捕されて逆さ十字架の刑に処された。刑場の跡地は現在の[[バチカン]]であり、墓所は[[サン・ピエトロ大聖堂]]となっている。
アッピア街道上にて初めて[[マイルストーン]]が見られた。

ローマ布教に失敗し追われる身となった聖[[ペトロ]]が、アッピア街道の中途でイエスの幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか
Domine, quo vadis」
と尋ねたところとしても知られる。ペトロは再度ローマへ赴き、逮捕されて逆さ十字架の刑に処された。刑場の跡地は[[ヴァチカン公国]]となっている。


==マイルストーン==
==マイルストーン==
[[File:Appia antica 2-7-05 007.jpg|thumb|right|180px|マイルストーン]]
[[ローマ帝国]]が前120年頃の道路関連法「[[センプローニウス法]]」に基き、主要な[[街道]]に1[[ローマ・マイル]] (1000歩) ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはこの[[マイルストーン]]が現在でも残っている。 起点は[[フォロ・ロマーノ]]である。
[[ローマ帝国]]が前120年頃の道路関連法「[[センプローニウス法]]」に基き、主要な[[街道]]に1[[ローマ・マイル]] (1000歩) ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはこの[[マイルストーン]]が現在でも残っている。 起点は[[フォロ・ロマーノ]]である。
===第1マイルストーン(I Milliarium)===
[[File:Appia antica 2-7-05 007.jpg|thumb|right|180px|第1マイルストーン]]
[[サン・セバスティアーノ門]]の少し先、[[トレニタリア]]の線路の手前に第1マイルストーン(里程標)がある。これは76年に建てられたものの複製で、実物は[[カンピドリオ]]広場に置かれている。碑文は次のようなものである。
:I. / IMP(ERATOR) CAESAR / VESPASIANUS AUG(USTUS) / PONTIF(EX) MAXIM(US) / TRIB(UNICIA) POTESTAT(E) VII / IMP(ERATOR) XVII P(ATER) P(ATRIAE) CENSOR / CO(N)S(UL) VII DESIGN(ATUS) VIII<ref>[http://db.edcs.eu/epigr/epi_einzel_en.php?p_belegstelle=CIL+10%2C+06812&r_sortierung=Belegstelle CIL 10, 06812 (p 991) = D 05819a ]</ref>

:(日本語意訳)ここが1マイル / インペラトル・カエサル / ウェスパシアヌス・アウグストゥス(=[[ウェスパシアヌス]]帝のこと)/ [[最高神祇官]] / [[護民官]]7回 / [[インペラトール]]歓呼17回 国家の父 [[ケンソル]] / [[執政官]]7回 翌年執政官8回

:IMP(ERATOR) NERVA CAE(SAR) / AUGUSTUS PONTIFEX / MAXIMUS TRIBUNICIA / POTESTATE CO(N)S(ULE) III PAT(ER) / PATRIAE RIFECIT<ref>[http://db.edcs.eu/epigr/epi_einzel_en.php?p_belegstelle=CIL+10%2C+06813&r_sortierung=Belegstelle CIL 10, 06813 (p 991) = D 05819b = AE 2005, +00026]</ref>

:(日本語意訳)インペラトール・ネルウァ・カエサル / アウグストゥス(=[[ネルウァ]]帝のこと)最高神祇官 / 護民官 執政官3回 / 国家の父 が(この里程標を)再建した


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[ブリンディジ]] - 終点
*[[ブリンディジ]] - 終点
*[[オットリーノ・レスピーギ]](交響詩『[[ローマの松]]』)
*[[オットリーノ・レスピーギ]](交響詩『[[ローマの松]]』)
*[[アウレリアヌス城壁]]のサン・セバスティアーノ門(アッピア門) - 始点 (3世紀から)
*[[アウレリアヌス城壁]]の[[サン・セバスティアーノ門]](アッピア門)
*[[ラティーナ門]]
*[[ラティーナ門]]
*[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]] - アッピア街道だけでなく、彼はローマ初の上水道である[[アッピア水道]]も建設した。
*[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]] - アッピア街道だけでなく、彼はローマ初の上水道である[[アッピア水道]]も建設した。
*[[アッピア街道州立公園]] - ローマ郊外の州立公園
*[[アッピア街道州立公園]] - ローマ郊外の州立公園


==参==
==参考文献==
{{reflist}}
*[http://www.jcca.or.jp/kaishi/222/222_tsukamoto.pdf アッピア街道 - ローマ帝国の高速道路]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Via Appia}}
{{Commons|Via Appia}}
*[http://www.jcca.or.jp/kaishi/222/222_tsukamoto.pdf アッピア街道 - ローマ帝国の高速道路]
*[http://www.parcoappiaantica.org/ アッピア旧街道州立公園 公式サイト]
*[http://www.parcoappiaantica.org/ アッピア旧街道州立公園 公式サイト]
*[http://www.parks.it/parco.appia.antica/ アッピア旧街道州立公園] イタリアの公園サイト内
*[http://www.parks.it/parco.appia.antica/ アッピア旧街道州立公園] イタリアの公園サイト内

2014年11月27日 (木) 15:05時点における版

アッピア街道の道筋(白線)

アッピア街道ラテン語: Via Appia)は、現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道(Via Appia Antica)とも呼ばれる。

概要・歴史

ローマ市街の境界サン・セバスティアーノ門
第3マイル付近のチェチーラ・メテッラの墓
ローマ付近の街道

紀元前312年に当時のケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により元老院の反対のなか、すでに存在したローマアルバーノ丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈なウェスウィウス山火山岩が用いられた。

アッピア旧街道の当初のルートはローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門カラカラ浴場付近)を起点とし、アリッチャ、アッピウスのフォルム、テッラチーナフォンディフォルミアミントゥルノ(ミントゥルナエ)、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでであった。

紀元前190年、街道はベネウェントゥム(現ベネヴェント)やウェヌシア(現ヴェノーザ)までさらに延長され、次の時代にはタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現ブリンディジ)まで延長された。

また、途中のベネウェントゥムからブルンディシウム(現ブリンディジ)を直線で結ぶトライアナ街道英語版トラヤヌスのアッピア街道)が109年に造られている。

紀元前71年、約6000人の奴隷がスパルタクスに率いられ反乱を起こしたマルクス・リキニウス・クラッススによってこの奴隷反乱が鎮圧されると逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらはポンペイにまで達した。

ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。

街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている(ヴェッレトリ近辺など)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベを多数見ることができる。

ローマ布教に失敗し追われる身となった聖ペトロが、アッピア街道の中途でイエスの幻影に出会い、「主よ、どこへ行かれるのですか(Domine, quo vadis ?)」と尋ねたところとしても知られる。現在その場所にはドミネ・クォ・ヴァディス教会が建てられている。そして、ペトロは再度ローマへ赴き、逮捕されて逆さ十字架の刑に処された。刑場の跡地は現在のバチカンであり、墓所はサン・ピエトロ大聖堂となっている。

マイルストーン

ローマ帝国が前120年頃の道路関連法「センプローニウス法」に基き、主要な街道に1ローマ・マイル (1000歩) ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはこのマイルストーンが現在でも残っている。 起点はフォロ・ロマーノである。

第1マイルストーン(I Milliarium)

第1マイルストーン

サン・セバスティアーノ門の少し先、トレニタリアの線路の手前に第1マイルストーン(里程標)がある。これは76年に建てられたものの複製で、実物はカンピドリオ広場に置かれている。碑文は次のようなものである。

I. / IMP(ERATOR) CAESAR / VESPASIANUS AUG(USTUS) / PONTIF(EX) MAXIM(US) / TRIB(UNICIA) POTESTAT(E) VII / IMP(ERATOR) XVII P(ATER) P(ATRIAE) CENSOR / CO(N)S(UL) VII DESIGN(ATUS) VIII[1]
(日本語意訳)ここが1マイル / インペラトル・カエサル / ウェスパシアヌス・アウグストゥス(=ウェスパシアヌス帝のこと)/ 最高神祇官 / 護民官7回 / インペラトール歓呼17回 国家の父 ケンソル / 執政官7回 翌年執政官8回
IMP(ERATOR) NERVA CAE(SAR) / AUGUSTUS PONTIFEX / MAXIMUS TRIBUNICIA / POTESTATE CO(N)S(ULE) III PAT(ER) / PATRIAE RIFECIT[2]
(日本語意訳)インペラトール・ネルウァ・カエサル / アウグストゥス(=ネルウァ帝のこと)最高神祇官 / 護民官 執政官3回 / 国家の父 が(この里程標を)再建した

関連項目

終点のブリンディジ

参考文献

外部リンク