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'''サモ・フバット'''(Samo Hubad、[[1917年]]<!-- <ref>[http://ml.naxos.jp/artist/62683 Naxos]</ref> -->[[7月17日]]<ref>[http://www.naxoslicensing.com/artist/62683/ Hubad, Samo (7/17/1917 )] {{en icon}} - NaxosLicensing</ref> - )は、[[オーストリア]]出身の[[指揮者]]<ref>[http://dic.academic.ru/dic.nsf/enc_music/8244/%D0%A5%D1%83%D0%B1%D0%B0%D0%B4 Хубад С.] {{ru icon}} - Академик</ref>。 |
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[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[リュブリャナ]]の出身。リュブリャナ音楽院で[[スラヴコ・オステルツ]]に作曲、ダニロ・シュバラに指揮を学ぶ。またプラハでも[[ヴァーツラフ・ターリヒ]]の薫陶を受けた。1942年から1958年までリュブリャナの歌劇場で指揮をとったが、その間の1945年にスロヴェニア放送のビッグ・バンドに参加し、ボヤン・アダミックの下で作曲のレッスンも受けた。1955年から1957年までザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を兼任した後、1959年から1964年までザグレブ歌劇場の首席客演指揮者として指揮台に上がった。1956年から1966年までスロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任し、1960年から1980年まで[[スロヴェニア放送交響楽団]]の首席指揮者を務めた。 |
[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[リュブリャナ]]の出身。リュブリャナ音楽院で[[スラヴコ・オステルツ]]に作曲、ダニロ・シュバラに指揮を学ぶ。またプラハでも[[ヴァーツラフ・ターリヒ]]の薫陶を受けた。1942年から1958年までリュブリャナの歌劇場で指揮をとったが、その間の1945年にスロヴェニア放送のビッグ・バンドに参加し、ボヤン・アダミックの下で作曲のレッスンも受けた。1955年から1957年までザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を兼任した後、1959年から1964年までザグレブ歌劇場の首席客演指揮者として指揮台に上がった。1956年から1966年までスロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任し、1960年から1980年まで[[スロヴェニア放送交響楽団]]の首席指揮者を務めた。 |
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2014年9月8日 (月) 20:31時点における版
サモ・フバット(Samo Hubad、1917年7月17日[1] - )は、オーストリア出身の指揮者[2]。
オーストリア=ハンガリー帝国領リュブリャナの出身。リュブリャナ音楽院でスラヴコ・オステルツに作曲、ダニロ・シュバラに指揮を学ぶ。またプラハでもヴァーツラフ・ターリヒの薫陶を受けた。1942年から1958年までリュブリャナの歌劇場で指揮をとったが、その間の1945年にスロヴェニア放送のビッグ・バンドに参加し、ボヤン・アダミックの下で作曲のレッスンも受けた。1955年から1957年までザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を兼任した後、1959年から1964年までザグレブ歌劇場の首席客演指揮者として指揮台に上がった。1956年から1966年までスロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任し、1960年から1980年までスロヴェニア放送交響楽団の首席指揮者を務めた。
出典
- ^ Hubad, Samo (7/17/1917 ) (英語) - NaxosLicensing
- ^ Хубад С. (ロシア語) - Академик