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'''アッタロス2世'''({{lang-grc|Άτταλος Β΄}}、[[ローマ字]]転写:'''Attalos II'''、[[紀元前220年]] - [[紀元前138年]])は[[アッタロス朝]](ペルガモン王国)の第4代国王(在位:[[紀元前159年]] - 紀元前138年)。'''愛兄王'''('''フィラデルフォス''')と呼ばれた。 |
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アッタロス2世は[[アッタロス1世]]と[[セレウコス朝]]の王女の第2子で、兄は[[エウメネス2世]]である。跡継ぎとして育てられた兄に、忠誠を尽くすように教育され、晩年までその教えを貫き通したため、フィラデルフォスと呼ばれるようになった。アッタロスは、[[マケドニア戦争]]に勝利して東方に勢力を拡大したローマとは兄の時代からの友好政策を維持した。ローマの意向に同調し、敵対する[[ビテュニア |
アッタロス2世は[[アッタロス1世]]と[[セレウコス朝]]の王女の第2子で、兄は[[エウメネス2世]]である。跡継ぎとして育てられた兄に、忠誠を尽くすように教育され、晩年までその教えを貫き通したため、フィラデルフォスと呼ばれるようになった。アッタロスは、[[マケドニア戦争]]に勝利して東方に勢力を拡大したローマとは兄の時代からの友好政策を維持した。ローマの意向に同調し、敵対する[[ビテュニア]]などと戦いを推進したため、「ローマの番犬」と呼ばれることもある。 |
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アッタロスの治世は西方、東方共に他国の侵略も無く安定した状態になり、兄と同様[[ペルガモン]]文化の保護政策を採ったことから、学問、芸術が大きく花開いた。 |
アッタロスの治世は西方、東方共に他国の侵略も無く安定した状態になり、兄と同様[[ペルガモン]]文化の保護政策を採ったことから、学問、芸術が大きく花開いた。 |
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2014年4月18日 (金) 16:30時点における版
アッタロス2世(古代ギリシア語: Άτταλος Β΄、ローマ字転写:Attalos II、紀元前220年 - 紀元前138年)はアッタロス朝(ペルガモン王国)の第4代国王(在位:紀元前159年 - 紀元前138年)。愛兄王(フィラデルフォス)と呼ばれた。
概要
アッタロス2世はアッタロス1世とセレウコス朝の王女の第2子で、兄はエウメネス2世である。跡継ぎとして育てられた兄に、忠誠を尽くすように教育され、晩年までその教えを貫き通したため、フィラデルフォスと呼ばれるようになった。アッタロスは、マケドニア戦争に勝利して東方に勢力を拡大したローマとは兄の時代からの友好政策を維持した。ローマの意向に同調し、敵対するビテュニアなどと戦いを推進したため、「ローマの番犬」と呼ばれることもある。
アッタロスの治世は西方、東方共に他国の侵略も無く安定した状態になり、兄と同様ペルガモン文化の保護政策を採ったことから、学問、芸術が大きく花開いた。
関連項目
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