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河野氏は松山市北条付近に根拠地を持つ水軍が出自である。後に、道後に湯築城を築き、本拠を移したが、湯築城の宗家と湊山城の分家により、
河野氏は松山市北条付近に根拠地を持つ水軍が出自である。後に、道後に湯築城を築き、本拠を移したが、湯築城の宗家と湊山城の分家により、
勢力を二分する内紛を勃発する結果となった。内乱を繰り返すことによって、勢力を削ぎ、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。
勢力を二分する内紛を勃発する結果となった。内乱を繰り返すことによって、勢力を削ぎ、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、[[河野水軍]]とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、
島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。
島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。



2006年3月1日 (水) 08:28時点における版

河野こうの)氏は守護大名戦国大名となった伊予国(愛媛県)の一族である。代々湯築城を居城としてきた。 河野氏は松山市北条付近に根拠地を持つ水軍が出自である。後に、道後に湯築城を築き、本拠を移したが、湯築城の宗家と湊山城の分家により、 勢力を二分する内紛を勃発する結果となった。内乱を繰り返すことによって、勢力を削ぎ、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。 一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、 島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。

平安・鎌倉時代

河野氏は伊予における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。平安時代の当初は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げた。

南北朝・室町時代

南北朝時代には四国へ進出し、伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛河野通朝らは四国管領となった細川頼之に駆逐され、九州の南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。

室町時代には河野通之の頃の1409年には、河野氏は東伊予を支配する高峠城の予州家と、西伊予を支配する湯築城の河野宗家に分裂し、守護河野教通と諸子の河野通春の争いはそれぞれ畠山持国細川勝元らが支援したために紛糾し、応仁の乱にも影響した。

戦国時代・安土桃山時代

戦国時代に入ると、河野氏内部では家督をめぐっての争いが起こるようになった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、予州家の当主・河野通政が家督をめぐって抗争したのである。これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。

対外的にも、土佐長宗我部氏豊後大友氏安芸毛利氏讃岐三好氏などの侵攻を受けるようになり、1585年河野通直の時代に長宗我部元親の軍門に降ることとなった。しかし同年、豊臣秀吉四国征伐で元親は秀吉に降伏し、通直も小早川隆景の説得を受けて降伏することとなった。

その後、通直は大名としての道を絶たれ、安芸竹原に仮寓を与えられた。そして1587年、通直が嗣子無くして没したため、河野氏は完全に滅亡した。

戦国時代の伊予の内情

 河野氏は守護大名、そして戦国大名として伊予国のトップとして長きに渡り君臨してきたが、度重なる内紛により戦国時代になると土豪たちとの強力な主従関係は無いに等しい状態となり、表面的には国人を傘下に収めつつも事実上国人の連合国家的性質の国となっていた。伊予国は他国に比べ領主が分立しておりそれぞれ独立した領地経営をしていたため結果として国として強力な結束力を持つに至らなかった。

河野氏主要名簿

河野氏主要家臣団

伊予諸豪族

河野諸氏末裔