「カミーユ・クローデル」の版間の差分
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[[日本]]での映画『[[カミーユ・クローデル (映画)|カミーユ・クローデル]]』公開に合わせて多くの文献が刊行され、紹介が本格化した。また1987年と2006年に「展覧会」が開催された。 |
[[日本]]での映画『[[カミーユ・クローデル (映画)|カミーユ・クローデル]]』公開に合わせて多くの文献が刊行され、紹介が本格化した。また1987年と2006年に「展覧会」が開催された。 |
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*レーヌ=マリー・パリス([[なだいなだ]]、宮崎康子訳)『カミーユ・クローデル 1864-1943』([[みすず書房]] 1989年) - 映画の原作。著者は[[ポール・クローデル]]の孫である。 |
*レーヌ=マリー・パリス([[なだいなだ]]、宮崎康子訳)『カミーユ・クローデル 1864-1943』([[みすず書房]] 1989年) - 映画の原作。著者は[[ポール・クローデル]]の孫である。 |
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*レーヌ=マリー・パリス、エレーヌ・ピネ共著(湯原かの子監修、南條郁子訳)『カミーユ・クローデル 天才は鏡のごとく』([[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉 2005年) |
*レーヌ=マリー・パリス、エレーヌ・ピネ共著([[湯原かの子]]監修、南條郁子訳)『カミーユ・クローデル 天才は鏡のごとく』([[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉 2005年) |
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*アンヌ・デルベ([[渡辺守章]]ほか訳)『カミーユ・クローデル』([[文藝春秋]] 1989年) |
*アンヌ・デルベ([[渡辺守章]]ほか訳)『カミーユ・クローデル』([[文藝春秋]] 1989年) |
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*湯原かの子『カミーユ・クローデル 極限の愛を生きて』([[朝日新聞社]] 1988年、朝日文庫 1992年) |
*湯原かの子『カミーユ・クローデル 極限の愛を生きて』([[朝日新聞社]] 1988年、朝日文庫 1992年) |
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*[[米倉守]]『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』([[講談社]] 1991年) |
*[[米倉守]]『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』([[講談社]] 1991年) |
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*[[ポール・クローデル]]([[山崎庸一郎]]訳)『眼は聴く』(みすず書房 1995年) - 姉への回想がある |
*[[ポール・クローデル]]([[山崎庸一郎]]訳)『眼は聴く』(みすず書房 1995年) - 姉への回想がある |
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== カミーユ・クローデルを扱った作品 == |
== カミーユ・クローデルを扱った作品 == |
2013年3月23日 (土) 23:18時点における版
カミーユ・クローデル(クロデル、Camille Claudel 発音例、1864年12月8日 - 1943年10月19日)は、フランスの彫刻家。詩人、外交官のポール・クローデルは弟。
生涯
1864年、エーヌ県のフェレ=アン=タルドノワにて、父ルイ=プロスペル・クローデルと母ルイーズの間に3人兄弟の長女として生まれる。妹には母と同じルイーズの名前が与えられた。子供の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮していく。そしてまた類まれなる美貌をも持っていた。19歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となる。時にロダン42歳。2人は次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため三角関係となる。その関係はその後15年にわたって続いていく。
ローズは大きな心の安らぎの存在であり、カミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことはできなかった。その中でカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するも中絶し、多大なショックを受ける。2人の関係は破綻を迎え、ロダンは妻ローズのもとへ帰っていく。カミーユは徐々に精神を病み、40代後半に発狂する。
1913年3月10日、48歳の時に家族によってパリ郊外ヌイイ=シュル=マルヌのヴィル・エヴラール精神病院に入れられた。その後第一次世界大戦の影響で南仏のモントヴェルク精神病院に移動させられ、そこが臨終の地になった。ルイーズはカミーユの芸術に理解を示さなかったため、2人の間には生涯確執が消えることはなかった。そのためルイーズと妹は精神病院に見舞いに行くことは一度もなく、ポールが数年に1度見舞うのみであった。
しかしポールも結婚し、外交官として任地の上海へ向かった後は姉と会う回数が激減した。晩年は毎朝決まって病院構内の礼拝堂に向かい祈った。カミーユは誰とも口を聞こうとせず、一人自己の世界に閉じこもった。また、ロダンへの憎しみと周囲の患者を見下すことでかろうじて自己の精神の孤高を保った。後年のみすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いた姿に面会したポールは愕然としたという。
1943年、家族に看取られることなく亡くなった。78歳没。終生願ったのは故郷に帰ることであったが、叶うことはなかった。
精神を病んだ後カミーユは多くの作品を破壊したが、そのうち約90の彫像、スケッチ、絵画が現存した。死後の1951年、ポールはロダン美術館で彼女の作品の展示を行った。
作品
- 『分別盛り』
- 『ワルツ』「シャクンタラー」
- 『幼い女城主』
- 『心からの信頼』
- 『骨をしゃぶる犬』
- 『物思い』
- 『嘆願する女』
- 『おしゃべりな女たち』
- 『ポール・クローデル42歳の胸像』
- 『オーギュスト・ロダンの胸像』
- 『ペルセウスとゴルゴン』
- 『泡』
- 『クロト』
- 『束を背負った若い娘』
日本語文献
日本での映画『カミーユ・クローデル』公開に合わせて多くの文献が刊行され、紹介が本格化した。また1987年と2006年に「展覧会」が開催された。
- レーヌ=マリー・パリス(なだいなだ、宮崎康子訳)『カミーユ・クローデル 1864-1943』(みすず書房 1989年) - 映画の原作。著者はポール・クローデルの孫である。
- レーヌ=マリー・パリス、エレーヌ・ピネ共著(湯原かの子監修、南條郁子訳)『カミーユ・クローデル 天才は鏡のごとく』(創元社〈「知の再発見」双書〉 2005年)
- アンヌ・デルベ(渡辺守章ほか訳)『カミーユ・クローデル』(文藝春秋 1989年)
- 湯原かの子『カミーユ・クローデル 極限の愛を生きて』(朝日新聞社 1988年、朝日文庫 1992年)
- 米倉守『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』(講談社 1991年)
- ポール・クローデル(山崎庸一郎訳)『眼は聴く』(みすず書房 1995年) - 姉への回想がある
カミーユ・クローデルを扱った作品
- カミーユ・クローデル (映画) - 1988年のフランス映画。イザベル・アジャーニがカミーユを演じた。
- カミーユ・クローデル (日本舞踊) -2004年作の創作舞。京都在住の日本舞踊家西川千麗が20年来取り組んできたもの。2007年に披露され、カミーユの縁者たちに「この美しさなら本人も幸せ」と喜ばれた。
- GOLD~カミーユとロダン~ (ミュージカル)2011年