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同年吉祥寺北口にある沖縄料理屋「ニライカナイ」にて初の単独ライブを行う。全曲宮古民謡でのステージであった。 |
同年吉祥寺北口にある沖縄料理屋「ニライカナイ」にて初の単独ライブを行う。全曲宮古民謡でのステージであった。 |
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2004年8月 自らのプロデュースによるイベント「島唄巡り ~奄美 沖縄 宮古 八重山~」を六本木の沖縄ライブ酒場「島唄楽園」にて開催。出演者は、井出宏則(奄美民謡)、矢島敏)沖縄民謡)、蔓木忍(八重山民謡)および砂川であった。各島の民謡を聴きながらその島を旅しているように楽しんでもらおうというコンセプトのもと、出演者がそれぞれの島の民謡を歌い、島のことを語るという企画であった。フィナーレの「八重山六調~張水のクイチャー~奄美六調~唐船ドーイ」の各島の踊り歌のメドレーによるカチャーシー大会では客席はもちろん、お店のスタッフも総出で踊りだし、大盛り上がりのなか大成功をおさめた。この模様は「週 |
2004年8月 自らのプロデュースによるイベント「島唄巡り ~奄美 沖縄 宮古 八重山~」を六本木の沖縄ライブ酒場「島唄楽園」にて開催。出演者は、井出宏則(奄美民謡)、矢島敏)沖縄民謡)、蔓木忍(八重山民謡)および砂川であった。各島の民謡を聴きながらその島を旅しているように楽しんでもらおうというコンセプトのもと、出演者がそれぞれの島の民謡を歌い、島のことを語るという企画であった。フィナーレの「八重山六調~張水のクイチャー~奄美六調~唐船ドーイ」の各島の踊り歌のメドレーによるカチャーシー大会では客席はもちろん、お店のスタッフも総出で踊りだし、大盛り上がりのなか大成功をおさめた。この模様は「週刊朝日」に掲載され大きな話題となり、翌年(2005年8月)にもこのイベントは開催された。 |
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2005年 帰沖の準備のために半年間沖縄本島に暮らす。その際に沖映通り沿いの民謡居酒屋「豚々美」(後に閉店)や国際通り傍の「島唄カフェ まるみかなー」(同)にて初の沖縄でのライブを行う。 |
2005年 帰沖の準備のために半年間沖縄本島に暮らす。その際に沖映通り沿いの民謡居酒屋「豚々美」(後に閉店)や国際通り傍の「島唄カフェ まるみかなー」(同)にて初の沖縄でのライブを行う。 |
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== 作品 == |
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* なりやまあやぐ c/w 豊年の歌 家庭和合(2009年11月15日) |
** なりやまあやぐ c/w 豊年の歌 家庭和合(2009年11月15日) |
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砂川国夫 | |
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別名 | くーにー |
生誕 | 1970年7月8日(53歳) |
出身地 |
日本 沖縄県宮古島市 |
ジャンル | 宮古民謡(日本 沖縄) |
職業 | 宮古民謡歌手 |
担当楽器 | 歌.三線 |
活動期間 | 1997 - 1998、2001 - |
公式サイト | アララガマ! 魂(たます)ぬあーぐ ~砂川国夫Official Blog~ |
砂川国夫(すながわ くにお、1970年(昭和45年) - )は、沖縄県宮古島市平良出身の沖縄の民謡歌手である。主に自身の出身である宮古島の民謡を歌っている。
宮古民謡古堅流(家元 古堅宗輝)所属であり、古堅流教師である。沖縄県那覇市在住。
経歴
活動初期
1985年、15歳でドラムを始める。高校3年(1988年)の時に当時組んでいたバンドが地元のバンドコンテストで優勝し、これを機にプロドラマーを目指すべく1989年3月に高校卒業後上京。
東京で様々なバンドでドラムを叩いていた24歳の時、1995年の正月に宮古島に帰郷した際に重信時計店(現 重信民謡研究所)で三線を購入し独学で始める。始めた動機は「自分は沖縄出身だからウチナーンチュとしてのアイデンティティを表現出来る何かを身につけたかった」と語っており、あくまでも趣味としてのものであった。
棚原玄正グループの家庭和合を聴き、その素朴さと歌詞に感動し、是非歌いたいと最初に覚えた。この歌は現在でも大事な歌として大切に歌っており、2009年に発売されたシングルCDに収録されている。
三線弾きとしての初のライブは1997年、東京 高円寺のライブバー「ペンギンハウス」であった。当時の心境を「いつもはドラマーとしてフロントに立つ人間をサポートする立場だったのでフロントに立って歌いながら弾いてライブをするのがこんなに大変だとは思わなかった。」と語っており、ライブはガチガチに緊張し、曲も途中で止まって何度も1からやり直したりとかなり大変だったようだ。それでもライブを観に来てくれた友達に応援され、励まされながら無事に務めた。同時期に高円寺の沖縄居酒屋「抱瓶」でもライブを行っている。
1998年に当時組んでいたバンドが解散し、ドラマーとしての限界を感じ引退。以降2001年まで音楽活動から遠ざかることとなる。
活動再開と帰沖
2001年11月、新宿を散歩中に偶然通った新宿西口と東口の連絡通路(通称ガード下)を見渡しながら、「ここで路上ライブをやったら気持ちいいだろうな。」と、日を改めて三線を持って初めて路上ライブを決行する。多少緊張しながら「とりあえず1曲演って人が集まらなかったら帰ろう」と「豊年の歌」を歌い始めた途端に人がぞくぞくと集まり始めた。中には沖縄県人会のメンバーが数人おり、「唐船ドーイ」を演奏した瞬間、県人会のメンバーを中心にその場にいた全員がカチャーシーを踊り始め、通りが一時通行出来ないほどの人で埋め尽くされた。全くもらうつもりも無かった投げ銭も入り、これがきっかけで三線弾きとしての音楽活動を再開した。
しばらくは新宿を拠点に路上ライブを行い、吉祥寺、高円寺、立川などの中央線沿線や調布、高幡不動、赤羽、蒲田、国分寺、三鷹、渋谷と活動の幅を広げていく。日本そば屋や沖縄料理店、イタリア料理店で働きながら三線の腕を磨き、沖縄料理店では時折行われるライブで歌っていた。
この頃に国吉源次の歌う「池間の主」を聴き、「宮古にこんな素晴らしい歌があったんだ!」と生まれ島である宮古島の民謡に深い感銘を受け、以来宮古民謡にのめり込む様になる。
2003年 恵比寿のライブバー「にんにくや」で開催されたさんしんの日のイベントで初めて宮古民謡のみで構成した選曲でステージを務める。
同年吉祥寺北口にある沖縄料理屋「ニライカナイ」にて初の単独ライブを行う。全曲宮古民謡でのステージであった。
2004年8月 自らのプロデュースによるイベント「島唄巡り ~奄美 沖縄 宮古 八重山~」を六本木の沖縄ライブ酒場「島唄楽園」にて開催。出演者は、井出宏則(奄美民謡)、矢島敏)沖縄民謡)、蔓木忍(八重山民謡)および砂川であった。各島の民謡を聴きながらその島を旅しているように楽しんでもらおうというコンセプトのもと、出演者がそれぞれの島の民謡を歌い、島のことを語るという企画であった。フィナーレの「八重山六調~張水のクイチャー~奄美六調~唐船ドーイ」の各島の踊り歌のメドレーによるカチャーシー大会では客席はもちろん、お店のスタッフも総出で踊りだし、大盛り上がりのなか大成功をおさめた。この模様は「週刊朝日」に掲載され大きな話題となり、翌年(2005年8月)にもこのイベントは開催された。
2005年 帰沖の準備のために半年間沖縄本島に暮らす。その際に沖映通り沿いの民謡居酒屋「豚々美」(後に閉店)や国際通り傍の「島唄カフェ まるみかなー」(同)にて初の沖縄でのライブを行う。
2006年 関東の様々な沖縄料理店や沖縄関係のイベントに多数出演。初めて関西(京都)でのライブを行うなど精力的に活動する。また、東京 乃木坂にある沖縄料理店「島唄楽園 美海店」にて宮古民謡三線教室を開講し、講師として宮古民謡の指導にも携わるようになる(後に休校)。
9月に沖縄本島に戻った際、現在の師匠である古堅宗輝と出会い、宮古民謡を師事する。
2007年2月 宮古民謡の道を深く探求し、自身の歌の更なる発展を目指し、18年近く住んだ東京を離れ師匠の住む沖縄本島へ移り住み、那覇市に拠点を構える。
帰沖後
古堅の指導を受けながら原点に戻ろうと国際通り(ホテルJAL CITY~むつみ橋交差点間)で路上ライブを行う傍ら、国際通り沿いの民謡居酒屋に多数出演、東京、神奈川、大阪と県外でもライブを行う。
2007年8月 宮古島のライブハウス「ROADHOUSE雅歌小屋」にて念願だった故郷でのライブを行う。
2008年 国際通りで路上ライブを行っていた際に偶然通りかかった仲田まさえの薦めで仲田幸子芸能館松山店に出演。
国際通り沿いの民謡居酒屋の観光客に媚びた選曲やライブ進行を強要されるのに嫌気がさし、出演していた店をすべて辞め、路上ライブやライブハウス、県外での活動が中心になる。
2009年9月 東北ツアーを慣行し、いわき、仙台、岩手県宮古市、青森、新潟でライブを行う。新潟に立ち寄った際に上越市板倉区にある中村十作記念館を訪ね、十作の墓前で奉納演奏を行う。11月、1stシングル「なりやまあやぐ c/w豊年の歌 家庭和合」を発売。
2010年 知人の紹介で心療内科のデイケアスタッフとして就職。うつ病や精神疾患の患者の話し相手になったり生活のサポートをしながら患者に三線を教えたり、月1回行われるパーティーでライブを行ったりして患者達の心のケアに努めている。
2011年9月 沖縄音楽専門の着うた配信サイト「沖縄ちゅらサウンズ」より同年発売の1st CDシングル3曲の着うた配信を開始。
2012年9月 インターネットによるTV放送「ユーストリーム」にて宮古民謡の専門番組「araragama.TV」を日本時間の毎週土曜日21時頃から放送開始。MCを務めている。また、それと並行して1stアルバムのレコーディングを行いつつ、初の海外公演(アメリカ ニューヨーク)に向けてリハーサルを行っている。
エピソード
- 師匠である古堅宗輝(ふるげんそうくん)は、砂川が宮古民謡の唄者として強い影響をうけている古堅宗雄の息子にあたる。
- 琉球民謡伝統協会、在沖宮古民謡協会(現 沖縄宮古民謡協会)からそれぞれ新人賞、優秀賞を受賞しているが、他の民謡団体間や同じ民謡団体同士での派閥争いや権力闘争といった、民謡とは関係のない事で互いに足を引っ張り合う状況を目の当たりにし、「先人から歌い継がれてきた大切な唄を生きてる歌としてしっかり継承して、次世代に繋ぎつつ自分の歌い方を追求して行くことに専念したい。」として両民謡団体から脱会している。
- 東京在住時代、ライブの打ち上げを新宿の歌舞伎町で行った際、泥酔してコマ劇場(現在は閉館)の前の広場で三線を持ったまま寝てしまい、気が付くと三線と財布が無くなっていた。辺りを必死に探したが見つからず、盗まれたものと思い途方に暮れていると、広場の片隅に三線ケースと財布が置かれているのを見つけ、三線や財布の中の現金や貴重品も盗まれずに残っており、何の被害もなく無事に手元に戻ってきた。(歌舞伎町は日本一治安が悪い事で有名な繁華街であり、暴力団やマフィアの抗争事件や窃盗や強盗などの犯罪が日常茶飯事で、酔っ払いを狙った窃盗事件も多い。)彼はこの日の出来事を「歌舞伎町の奇跡」と呼んでいる。
- 2009年に奄美大島にライブをしに訪れた際、影響を受けた盲目の唄者、里 国隆の墓参りをしに大島北部の崎原地区にある里が眠っている墓地を訪れたが、墓石に書かれている名字のほとんどが 「里」 だったためどの墓か分からず迷っていると、風にのって「ここだよ~、ここだよ~。」という声が聞こえてきたという。空耳だと思いながらも半信半疑でその声が聞こえてくる場所に向かって歩くと、目印である生前里が愛用していたと言われる杖が置かれた里 国隆の墓を見つけ、無事にお墓参りをすることが出来た。そのときの事を「国隆氏に呼ばれた。」と語っている。
- ロックバンド BLANKEY JET CITY の熱狂的ファンであり、特にドラマーの中村達也を深く敬愛している。
- 伝説のパンクバンド THE STALINのボーカリスト 遠藤ミチロウのことを、「殴られたいほど好き」と公言している。
作品
- シングル
- なりやまあやぐ c/w 豊年の歌 家庭和合(2009年11月15日)