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'''野原 哲也'''(のはら てつや、[[1960年]][[5月3日]] - )は、現在、[[競輪選手#日本競輪選手会|日本競輪選手会]][[福井県|福井]]支部長を務める[[競輪選手]]
'''野原 哲也'''(のはら てつや、[[1960年]][[5月3日]] - )は[[競輪選手]]。[[福井県]]出身。[[日本競輪学校]]第51期卒業。現役時は[[日本競輪選手会]]福井支部所属


== 来歴 ==
== 戦績 ==
[[福井県立春江工業高等学校]]時代には[[バスケットボール]]部で活動。その後2年間の会社員生活を経て、[[日本競輪学校]](以下、競輪学校)第51期生となった。同期には[[本田晴美]]、[[山田英伸]]、[[戸邉英雄]]らがいる。同期在校競走成績は66勝を挙げ第4位。そして同期卒業記念レースで優勝した。
[[福井県立春江工業高等学校]]在学中には[[バスケットボール]]部で活動。その後2年間の会社員生活を経て、[[日本競輪学校]]第51期生として入学。同期には[[本田晴美]]、[[山田英伸]]、[[戸邉英雄]]らがいる。在校競走成績は66勝を挙げ第4位となり、卒業記念レースで優勝した。


なお、競輪学校第51期生のデビュー戦から、同期同士のみで4ヶ月間競を行う[[新人リーグ]]が開始されたが、[[1983年]][[4月14日]][[大津びわこ競輪場]]でデビュー、初勝利を挙げた。その後の活躍はめざましく、翌[[1984年]]デビュー1年未満で早くも3月開催の[[日本選手権競輪]]([[千葉競輪場]])に出場、同年5月には当時の最高位であるS級1班格付けを果たした。
初出[[1983年]][[4月14日]][[大津びわこ競輪場]]で、この期よりデビュー時からの新人リーグが同期同士のみにより4ヶ月間競走を行う形態に変更されたがその中で初戦初勝利を挙げた。その後の活躍はめざましく、翌[[1984年]]にはデビュー1年未満で早くも3月開催の[[日本選手権競輪]]([[千葉競輪場]])に出場、同年5月には当時の最高位であるS級1班格付けを果たした。


2011年12月19日現在、特別競輪(現在のGI)は4回の決勝進出歴があり、[[1993年]]の[[日本選手権競輪]]([[立川競輪場]])で[[大竹慎吾]]の2失格があったとはいえ3に入った。この他、ホームバンクの[[福井競輪場]]で行われた1991年の[[ふるさとダービー]]でも3に入っ
特別競輪(現在のGI)は4回の決勝進出歴があり、[[1993年]]の[[日本選手権競輪]]([[立川競輪場]])で[[大竹慎吾]]の2失格による繰り上りで3に入った。またホームバンクの[[福井競輪場]]で行われた1991年の[[ふるさとダービー]]でも3に入っている

選手生活の晩年は地元の選手会会長を務めていたが、[[2012年]][[8月6日]]の[[小松島競輪場]]第6R・A級特一般戦で8着となったあと、競走から離れたのち引退を発表し、同年[[9月21日]]に地元の[[福井競輪場]]で引退セレモニーが行われバンクを去った。

同年[[10月12日]]選手登録消除。通算成績2463戦375勝。


== 主な弟子 ==
== 主な弟子 ==
*[[市田佳寿浩]](競輪学校第76期生)
*[[市田佳寿浩]](76期生)
*[[北川紋部]](同78期生)
*[[北川紋部]](78期生)
*[[後藤純平]](同78期生)
*[[後藤純平]](78期生)
多数。
ほか多数。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/membprofile?SNO=010653 選手プロフィール] - KEIRIN.JP
*[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/membprofile?SNO=010653 選手プロフィール] - KEIRIN.JP



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2012年10月28日 (日) 08:17時点における版

野原 哲也(のはら てつや、1960年5月3日 - )は元競輪選手福井県出身。日本競輪学校第51期卒業。現役時は日本競輪選手会福井支部所属。

戦績

福井県立春江工業高等学校在学中にはバスケットボール部で活動。その後2年間の会社員生活を経て、日本競輪学校に第51期生として入学。同期には本田晴美山田英伸戸邉英雄らがいる。在校競走成績は66勝を挙げ第4位となり、卒業記念レースでは優勝した。

初出走は1983年4月14日大津びわこ競輪場で、この期よりデビュー時からの新人リーグが同期同士のみにより4ヶ月間競走を行う形態に変更されたが、その中で初戦初勝利を挙げた。その後の活躍はめざましく、翌1984年にはデビュー1年未満で早くも3月開催の日本選手権競輪千葉競輪場)に出場し、同年5月には当時の最高位であるS級1班格付けを果たした。

特別競輪(現在のGI)には4回の決勝進出歴があり、1993年日本選手権競輪立川競輪場)では大竹慎吾の2位失格による繰り上がりで3着に入った。またホームバンクの福井競輪場で行われた1991年のふるさとダービーでも3着に入っている。

選手生活の晩年は地元の選手会会長を務めていたが、2012年8月6日小松島競輪場第6R・A級特一般戦で8着となったあと、競走から離れたのち引退を発表し、同年9月21日に地元の福井競輪場で引退セレモニーが行われバンクを去った。

同年10月12日選手登録消除。通算成績2463戦375勝。

主な弟子

ほか多数。

参考文献

外部リンク