「福原元僴」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
26行目: 26行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士[[佐世親長]]の養子となる。[[嘉永]]4年([[1851年]])家老に昇進するが、家老にしては家柄が低すぎることから([[佐世氏|佐世家]]は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は[[毛利氏]]と同じ[[大江氏|大江]][[朝臣]][[長井氏]]であり、[[安芸福原氏|福原氏]]は宿老の家柄である)、[[安政]]5年([[1858年]])に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・[[福原親俊]]の家督を継承した。
[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士[[佐世親長]]の養子となる。[[嘉永]]4年([[1851年]])家老に昇進するが、家老にしては家柄が低すぎることから([[佐世氏|佐世家]]は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は[[毛利氏]]と同じ[[大江氏|大江]][[朝臣]][[長井氏]]であり、[[安芸福原氏|福原氏]]は宿老の家柄である)、[[安政]]5年([[1858年]])に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・[[福原親俊]](伯父・[[福原房純]]の孫)の家督を継承した。


その後は国家老として藩主・[[毛利敬親]]を補佐し、[[尊王攘夷]]運動を推進する。しかし[[文久]]3年([[1863年]])、[[八月十八日の政変]]で長州藩が[[京都]]から追放されると、[[来島又兵衛]]や[[久坂玄瑞]]らと協力して挙兵し、上京して[[禁門の変]]を引き起こした。元僴は蛤御門で[[大垣藩]]の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。
その後は国家老として藩主・[[毛利敬親]]を補佐し、[[尊王攘夷]]運動を推進する。しかし[[文久]]3年([[1863年]])、[[八月十八日の政変]]で長州藩が[[京都]]から追放されると、[[来島又兵衛]]や[[久坂玄瑞]]らと協力して挙兵し、上京して[[禁門の変]]を引き起こした。元僴は蛤御門で[[大垣藩]]の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。

2012年10月14日 (日) 04:32時点における版

 
福原元僴
時代 江戸時代末期
生誕 文化12年8月28日1815年9月30日
死没 元治元年11月12日1864年12月10日
別名 福原越後、福原徴之助、佐世主殿、号:翠崖
戒名 隆文院願堂全忠居士
墓所 山口県宇部市宗隣寺
官位 越後守
主君 毛利氏
氏族 大江姓毛利氏宇多源氏佐々木氏佐世氏→大江姓福原氏
父母 父:毛利広鎮、母:不詳
養父:福原親俊
兄弟 雅太郎、寛之進、鋭三郎、雍五郎、
堅田元琦、元僴元蕃秋元志朝
定広(元徳)、他多数
正室:椙森元周の娘
良通
テンプレートを表示

福原 元僴(ふくはら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士長州藩の永代家老。福原越後の名で知られている。長州藩支藩である徳山藩主・毛利広鎮の六男。

生涯

文化12年(1815年)生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士佐世親長の養子となる。嘉永4年(1851年)家老に昇進するが、家老にしては家柄が低すぎることから(佐世家は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏であり、福原氏は宿老の家柄である)、安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した。

その後は国家老として藩主・毛利敬親を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、来島又兵衛久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元僴は蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。

その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元僴は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相益田兼施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、元治元年(1864年)岩国の龍護寺で自害した。享年50。

寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。

養嗣子は福原姓を憚り、鈴尾(安芸福原氏発祥の城名)五郎と名乗り、後に復姓して、福原良通と名乗った。