「渋川尹繁」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
安海 (会話 | 投稿記録)
安海 (会話 | 投稿記録)
29行目: 29行目:
[[明応]]5年([[1496年]])肥前守護を名乗り翌明応6年([[1497年]])には[[大内義興]]の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。
[[明応]]5年([[1496年]])肥前守護を名乗り翌明応6年([[1497年]])には[[大内義興]]の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。


明応9年([[1500年]])、義興によって大内氏へ身を寄せていた前[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義尹]]に拝謁し正式に[[九州探題]]にも任じられた。[[肥前]][養父郡]]綾部の肥前守護所へ、再び入る。
明応9年([[1500年]])、義興によって大内氏へ身を寄せていた前[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義尹]]に拝謁し正式に[[九州探題]]にも任じられた。[[肥前]][[養父郡]]綾部の肥前守護所へ、再び入る。


しかし、[[永正]]元年([[1504年]])、少弐政資の3男・[[少弐資元|資元]]によって守護館およびその詰城であった[[綾部城]]・[[白虎山城]]を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に[[少弐氏]]に通じた為、[[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。
しかし、[[永正]]元年([[1504年]])、少弐政資の3男・[[少弐資元|資元]]によって守護館およびその詰城であった[[綾部城]]・[[白虎山城]]を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に[[少弐氏]]に通じた為、[[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。

2012年9月30日 (日) 00:52時点における版

 
渋川尹繁
時代 室町時代後期、戦国時代前期
生誕 不詳
死没 天文3年(1534年)?
改名 刀祢王丸(幼名)、尹繁
官位 右兵衛佐
幕府 室町幕府九州探題肥前守護
主君 足利将軍家
氏族 足利氏渋川氏
父母 父:渋川教直
兄弟 政実万寿丸尹繁和是
義長尭顕?
テンプレートを表示

渋川 尹繁(しぶかわ ただしげ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将室町幕府九州探題足利氏の一門渋川氏の出身。父は渋川教直

生涯

長享元年(1487年)、兄の万寿丸筑前亀尾城で家臣に裏切られて殺害されると渋川家当主となる。足利義尹より偏諱を与えられ尹繁と名乗った。

長享3年(1489年少弐政資の嫡男・高経によって肥前守護所である肥前綾部館を攻撃され、筑後犬塚城へ追われる。しかし、延徳3年(1491年)には高経の岳父大友政親によって犬塚城をも追われ、肥前勝ノ尾城へ移るなど渋川氏は滅亡寸前まで追い込まれた。この苦難の中で渋川氏が頼りとしたのは、西国の雄大内氏であった。

明応5年(1496年)肥前守護を名乗り翌明応6年(1497年)には大内義興の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。

明応9年(1500年)、義興によって大内氏へ身を寄せていた前将軍足利義尹に拝謁し正式に九州探題にも任じられた。肥前養父郡綾部の肥前守護所へ、再び入る。

しかし、永正元年(1504年)、少弐政資の3男・資元によって守護館およびその詰城であった綾部城白虎山城を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に少弐氏に通じた為、天文3年(1534年)に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。

関連項目

先代
渋川万寿丸
九州探題
1487年 - 1504年?
次代
渋川義長