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'''梶原 政景'''(かじわら まさかげ、[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]])) - [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]。岩付太田氏である[[太田資正]]の次男で、[[後北条氏|北条家]]臣として活動した[[太田氏資]]の異母弟。母は[[大石定久]]の娘。妻は[[真壁久幹]]の娘。官位は[[従五位下]]美濃守。通称は梶原源太。
'''梶原 政景'''(かじわら まさかげ、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])) - [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]。岩付太田氏である[[太田資正]]の次男で、[[後北条氏|北条家]]臣として活動した[[太田氏資]]の異母弟。母は[[大石定久]]の娘。妻は[[真壁久幹]]の娘。官位は[[従五位下]]美濃守。通称は梶原源太。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
梶原上野介未亡人の養子となり、梶原の名字を称した。梶原姓を称した時期には諸説あるが、『年代記配合抄』という書物によれば、{{和暦|1548}}に生まれ、{{和暦|1557}}3月に葛西城の[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]の下で元服して「'''梶原源太政景'''」と称した。[[梶原氏]]は、古河公方家の奉公衆として名前が見られ、永正年間には「梶原三郎政景」と称する人物が存在したことが知られている<ref>「白河証古文書中仙台白河家文書」所収、[[小峰朝脩|小峯朝脩]]宛梶原政景書状</ref>ことから、その名跡を継いだ可能性が高い。なお、「梶原源太」は鎌倉時代の武将・梶原景季と同じ名乗りであったが、鎌倉期の梶原氏と古河公方奉公衆の梶原氏の関係は不詳である。その直後から、義氏の[[取次|奏者]]として政景の名前が登場することから、義氏の近臣として仕えていたとみられている。ところが、{{和暦|1560}}に父が[[上杉謙信]]に呼応して[[足利藤氏]]の古河公方擁立に加担すると、政景も義氏の下を去って[[岩付城]]に戻った<ref>新井、2000年</ref>。
梶原上野介未亡人の養子となり、梶原の名字を称した。梶原姓を称した時期には諸説ある。「'''梶原源太'''」を称したとされるが、[[鎌倉時代]]の[[梶原氏]]との関係は不詳である。


共に反[[後北条氏|北条氏]]的な人物だったため、[[北条氏康]]の娘を娶り、親北条氏の立場をとる兄によって{{和暦|1564}}、父と共に[[]]から追放された。そのため、父と共に[[常陸国]]の[[佐竹氏]]当主・[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]を頼り、その家臣となった。
ころが、太田氏と[[後北条氏|北条氏]]との関係断絶と政景の帰国は[[北条氏康]]の娘を娶っていた兄[[太田資|氏資]]の立場を微妙なものし、やがて{{和暦|1564}}、政景は父と共に氏資によって城から追放された。そのため、父と共に[[常陸国]]の[[佐竹氏]]当主・[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]を頼り、その家臣となった。


佐竹義重の[[小田氏治]]討伐では小田氏治勢を破り、その功績から[[小田城]]を与えられた。しかし、兄の氏資の横死後に、その後釜を狙って一時期[[後北条氏|北条氏]]に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。
佐竹義重の[[小田氏治]]討伐では小田氏治勢を破り、その功績から[[小田城]]を与えられた。しかし、兄の氏資の横死後に、その後釜を狙って一時期[[後北条氏|北条氏]]に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。


以後は[[1577年]]に、初陣の[[北条氏直]]による攻撃を受けて応戦するなど、後北条氏との戦いを繰り広げた。また、[[安房国]]の[[戦国大名]]・[[里見義頼]]や、三河国・遠江国・駿河国を領する[[徳川家康]]と連携し、北条氏の挟撃を画策するなど、反北条の活動を続けた。
以後は{{和暦|1577}}に、初陣の[[北条氏直]]による攻撃を受けて応戦するなど、後北条氏との戦いを繰り広げた。また、[[安房国]]の[[戦国大名]]・[[里見義頼]]や、三河国・遠江国・駿河国を領する[[徳川家康]]と連携し、北条氏の挟撃を画策するなど、反北条の活動を続けた。


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{{和暦|1590}}、[[小田原征伐]]後は、佐竹氏の命令で[[植田城]]に居城を移した。翌年、父・資正が没。後には[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]にも出陣、渡海して朝鮮半島にも出兵している。{{和暦|1600}}の[[関ヶ原の戦い]]の後、日和見的態度に終始して減封された佐竹氏の[[秋田藩|秋田]]転封に従うも、後に辞して[[福井藩|北ノ庄藩]]の[[結城秀康]]に2,000石で仕えた。
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{{和暦|1614}}から始まる[[大坂の陣]]にも秀康の子、[[松平忠直]]の家臣として従軍している。


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{{和暦|1615}}没。没年には{{和暦|1623}}説もある。太田氏の家督は弟の[[太田資武|資武]]が継いだ


墓所は[[福井市]][[禅林寺 (福井市)|禅林寺]]。
墓所は[[福井市]][[禅林寺 (福井市)|禅林寺]]。


== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*新井浩文「梶原政景と足利義氏」(初出:『駒沢史学』55号(2000年)/所収:新井『関東の戦国期領主と流通』(2011年、岩田書院))
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[三戸文書]]
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2012年6月28日 (木) 18:51時点における版

梶原 政景(かじわら まさかげ、天文17年(1548年)) - 元和元年(1615年))は、戦国時代から江戸時代前期の武将。岩付太田氏である太田資正の次男で、北条家臣として活動した太田氏資の異母弟。母は大石定久の娘。妻は真壁久幹の娘。官位は従五位下美濃守。通称は梶原源太。

生涯

梶原上野介未亡人の養子となり、梶原の名字を称した。梶原姓を称した時期には諸説あるが、『年代記配合抄』という書物によれば、1548年(天文17年)に生まれ、1557年(弘治3年)3月に葛西城の足利義氏の下で元服して「梶原源太政景」と称した。梶原氏は、古河公方家の奉公衆として名前が見られ、永正年間には「梶原三郎政景」と称する人物が存在したことが知られている[1]ことから、その名跡を継いだ可能性が高い。なお、「梶原源太」は鎌倉時代の武将・梶原景季と同じ名乗りであったが、鎌倉期の梶原氏と古河公方奉公衆の梶原氏の関係は不詳である。その直後から、義氏の奏者として政景の名前が登場することから、義氏の近臣として仕えていたとみられている。ところが、1560年(永禄3年)に父が上杉謙信に呼応して足利藤氏の古河公方擁立に加担すると、政景も義氏の下を去って岩付城に戻った[2]

ところが、太田氏と北条氏との関係断絶と政景の帰国は北条氏康の娘を娶っていた兄氏資の立場を微妙なものとし、やがて1564年(永禄7年)、政景は父と共に氏資によって岩付城から追放された。そのため、父と共に常陸国佐竹氏当主・佐竹義重を頼り、その家臣となった。

佐竹義重の小田氏治討伐では小田氏治勢を破り、その功績から小田城を与えられた。しかし、兄の氏資の横死後に、その後釜を狙って一時期北条氏に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。

以後は1577年(天正5年)に、初陣の北条氏直による攻撃を受けて応戦するなど、後北条氏との戦いを繰り広げた。また、安房国戦国大名里見義頼や、三河国・遠江国・駿河国を領する徳川家康と連携し、北条氏の挟撃を画策するなど、反北条の活動を続けた。

1590年(天正18年)、小田原征伐後は、佐竹氏の命令で植田城に居城を移した。翌年、父・資正が没。後には文禄の役にも出陣、渡海して朝鮮半島にも出兵している。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、日和見的態度に終始して減封された佐竹氏の秋田転封に従うも、後に辞して北ノ庄藩結城秀康に2,000石で仕えた。

1614年(慶長19年)から始まる大坂の陣にも秀康の子、松平忠直の家臣として従軍している。

1615年(元和元年)没。没年には1623年(元和9年)説もある。太田氏の家督は弟の資武が継いだ。

墓所は福井市禅林寺

脚注

  1. ^ 「白河証古文書中仙台白河家文書」所収、小峯朝脩宛梶原政景書状
  2. ^ 新井、2000年

参考文献

  • 新井浩文「梶原政景と足利義氏」(初出:『駒沢史学』55号(2000年)/所収:新井『関東の戦国期領主と流通』(2011年、岩田書院))

関連項目