大石定久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
大石定久
時代 戦国時代
生誕 延徳3年3月23日1491年5月1日
死没 天文18年10月7日1549年10月27日[1]
改名 定久→心月斎道俊(号)
別名 綱周[2]、通称:源左衛門尉
幕府 室町幕府 武蔵守護代
主君 上杉憲政北条氏康
氏族 大石氏
父母 父:大石定重
兄弟 定久憲重定基信吉照仲定顕顕重?[3]、遠江守?、信濃守?
比佐(北条氏照正室)、定仲
養子:氏照北条氏康三男)、
定勝

大石 定久(おおいし さだひさ)は、戦国時代武将山内上杉家後北条氏の家臣。武蔵国守護代滝山城主。

略歴[編集]

大石氏は代々関東管領上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。

延徳3年(1491年)、大石定重の子として誕生。定久も父の後を継いでいたが、天文15年(1546年)、上杉氏が北条氏康河越城の戦いで大敗し没落すると、主君の上杉憲政を見限って後北条氏に臣従する。その後、氏康の三男・氏照を娘・比佐の婿養子として迎え入れて滝山城と武蔵守護代の座を譲り、入道して心月斎道俊と号し多摩郡五日市の戸倉城に隠居した。

隠居後も快く従属したわけではなく、上杉謙信や隣接する青梅の勝沼城一帯を領する三田綱秀らと誼を通じていたという。謙信との軍事・外交は養子の氏照が重要な働きをする。程なく、三田領は氏照によって併呑されることになる。

天文18年(1549年)、死去。

脚注[編集]

  1. ^ Web八王子事典
  2. ^ こちらより。北条氏に仕えた際に「綱」の字を与えられたとする。但し、当時の当主は北条氏康であり、氏康から父・氏綱の1字を下賜されたということになる。
  3. ^ 6代目道俊か。